論理学入門2007 第4回 論理学になぜ「否定」が必要か&接続の論理2:「ならば」

受講生の皆さん、今晩は。連休はどうでしたか。連休モードからは抜けましたか?

連休前の前回はまず、論理的になるには、言葉のつながり方に敏感になる、言葉のつなぎ方に自覚的になることだという話しをしました。そして論理的になるための隠れトレーニングとしては、話したり、書いたりする場合に、接続語や指示語を意識的に使うようにする、そして他人が書いたものを読んだり、他人の話を聞く場合には、逆に接続語や指示語がどう使われているか、あるいは省略されているかに注意するといい、と。トレーニングしてますか?

社会的に要求される「論理力」を身につけるだけであれば、そのトレーニングを積むだけで十分かもしれませんが、この講義ではもう少し先、論理力をもう少し研ぎすまことを目指します。というのも、論理的であることの最も厳密な「物差し」というか「基準」を知っていれば、実際の言葉の使われ方、使い方の複雑さや曖昧さについての理解も深まるからです。つまり、余裕をもって、言葉に接することができるようになるからです。そういうわけで、わたしたちは現代の標準的な論理学の門をくぐりかけているわけです。

さて、前回は復習を兼ねて以下の1から11の途中までやったわけでした。

1論理学はあくまでことばにかかわる。
2論理学はことばのつながり、関係の一種に関わる。
3論理学は演繹(的推論)に関わる。
4演繹とは前提を認めたら必ず結論も認めなければならないような導出である。
5導出とは前提から結論を導く過程だけを意味する。
6導出に前提の正しさを評価することも加えた全体を論証と呼ぶ。
7演繹にとって重要な語彙、論理的語彙は否定語と接続語である。
8否定語と接続語をめぐってひとつの完結した論理体系(「命題論理」)が作り上げられる。
9否定語と接続語に、量化語(「すべて」と「存在する」)が加わって、より包括的な論理体系(「述語論理」)が作り上げられる。

10論理体系とは論理法則から出来上がっている。
11論理法則とは論理的な語彙が論理学でどのように規定されているかを示すものである。
12論理法則は導入則と除去則からなる。
13導入則とは論理的語彙を用いた主張が他のどんな主張から導かれるかを示すものである。
14除去則とは論理的語彙を用いた主張から他のどんな主張を導けるかを示すものである。
15否定の論理法則に関しては、導入則は矛盾律にもとづく背理法、除去則は排中律もとづく二重否定則(二重否定取り)である。
16接続の論理法則は、連言(「かつ」)、選言(「または」)、条件(「ならば」)のそれぞれの導入則と除去則である。

こうやって専門用語を混ぜて箇条書きすると、いかにも固くて難しそうですが、内容的には要するに「否定」と「接続」の論理学的な意味、日常的な意味の核心部分をつかまえるという、それなりによく分かることでしたよね。それに肝心なことは、専門用語をハンドリングできることではなくて、論理学が示すことばのある種の使い方に関するセンスを磨くことですから、心配しないでください。

前回は(前回も)復習に時間をかけたので後半は早足になってしまい、否定の論理法則の整理と、連言(「かつ」)と選言(「または」)に関する、日常的な意味とは一線を画す論理学的な意味、すなわち、どういう場合に「〜ない」や「かつ」や「または」を使ってもいいのか(「導入則」)、そしてどういう場合に「〜ない」や「かつ」や「または」を外せるのか(「除去則」)を一通り解説したところで時間切れになってしまいました。

ところで、「接続」の前に、「否定」をやったのはどうしてなのか、という疑問を抱いた人も多いのではないでしょうか。論理学はことばのつながり、関係の一種を扱うということは了解したが、「否定」って、どんなつながり、関係なの?と思いませんでしたか?実は、私は教えながら、そう思ってしまいました(笑)。「否定」の論理学的な意味に関しては、野矢茂樹さんは『入門!論理学』の中で非常に周到に書いていますが、「つながり」という観点からの説明はありません。そこで、私はつらつらと考えました。*1

否定とは、つながりに関係するといっても、つながりのエッジ(極端)、すなわち、「つながりの再出発点となる主張を作る働き」ということではないでしょうか。考えてもみてください。私たちは最初から正しい出発点に立てるとは限らない、というか、そういうことの方が少なくて、むしろ正しいのか誤っているのかはっきりしない主張を仮の出発点にして、それを他の主張につなげていきながら、その途中で、前の主張を取り消したり、修正したりしながら、先に進むのが普通です。

ただ、もちろん、私たちが入門しようとしている現代の標準的な論理学は、野矢さんの表現を借りるなら「神の視点」からの論理学ですから、すべてお見通しの神の視点からは、そんなはっきりしない出発点はありえないのではないか、と反論されるかもしれませんね。しかし、です。もし文字通りにそうであれば、神の論理学に「否定」は必要ないはずではないですか。すべてお見通しなら、後から否定されるようなことを主張することはありえませんからね。

ところが、排中律(Aまたは(Aではない))と矛盾律(Aかつ(Aではない)ということはない)をはじめとして、否定を抜きにして、論理学は成り立ちません。ということは、実は否定の扱いの中に、人間的な視点がちゃんと反映しているのだと言えるのではないでしょうか。すなわち、否定を論理学の重要な語彙として扱うということは、「大いに誤りうるが、誤りを修正(否定)して再出発することを繰り返しながら少しずつ前に進む」という極めて人間的な観点が盛り込まれているということではないでしょうか。

それからもう一点、気がついた人もいるかもしれませんが、否定に関する排中律には「または」が使われ、矛盾律には「かつ」が使われていますよね。このような論理法則の間のある種の「循環的規定」をどう考えたらいいか。このあたりについては、「否定の論理学的な意味はもう一段深かった」というテーマで、明日の講義で若干敷衍する予定です。そして前回やり残した否定と連言と選言の論理法則の総決算のような「ド・モルガンの法則」を解説してから、第三の接続、最も論理的な接続である「ならば」の解説に入れればいいなと考えています。

*1:専門的には、「接続」は真理値を保存する操作であり、「否定」は真理値を反転する操作である、などと説明されます。