論理学入門2007 第6回 復習:否定とは”他者”の媒介である

今回は冒頭「否定とは何か」についてひらめいたことを少しだけお話しました。板書を写真に撮るのを忘れたので、授業直前にひらめいたことをラフスケッチしたものを載せておきます。

とりあえず、私たちが備えるべき力と今学んでいる論理学との関係を「論理学<論理力<表現力<企画力<生き抜く(生き残る)力」の同心円でイメージした上で、「論理学」の根底に組み込まれた「否定」の意味について、論理学を超えて、哲学的に考えてみました。その暫定的な結果は、

否定とは”他者”の媒介である。

と言えるのではないか、ということでした。そもそも論理学の必要性は人間存在の根源的な条件とも言える「対話性」にある。根源的な自他の区別です。それは生身の他人ばかりでなく、もう一人の自分をも含む他者性です。言い換えれば分裂性と言ってもいい。そのような対話性が否定という形で論理学の土台に組み込まれている。そう解釈できるのではないか、ということでした。しかもそのような意味での「否定」はそれこそ否定的な意味合いのものではなくて、自己を拡張、深化させるために必須な望ましい契機、チャンスであると捉えるべきではないか、ということでした。

そうだとすれば、命題論理さえ、やはり「神の論理学」ではなく、充分「人間の論理学」であると言えるでしょう。

もちろん、専門的には、次回学ぶように、否定は「真理値の反転操作」と解釈された上で、話しが進みますが、そもそも体系の構築プロセスは人間が行う、人間的なプロセスであって、結果的に出来上がった体系は「宙に浮いている」ように見えても、実は「臍の緒」の痕跡は残されていると言える、

否定は臍である、

と。

次回は命題論理の体系、ある意味で「思考の原理」がコンピュータの計算の原理、論理回路に応用されているということにもちょっと触れたいと思っています。コンピュータの計算を思考とみなしたくなるのも、無理のないところがあるというお話です。