今回の講義の要点です。
情報文化論2007 第7回 二大帝国と世界宗教:世界の手鏡、反世界、古代の情報発電所
1ローマ帝国と漢帝国の共通点
1.1強い皇帝
1.2百科事典の登場
1.3ネットワーク
1.4編集技術2ローマ帝国と漢帝国の相違点
2.1思想
2.2科学と医学
2.3宗教3ユダヤ教からキリスト教への転換点
3.1ヘブライズム
3.2ユダヤ教の流れ
3.3キリスト教の誕生の謎
3.4ディアスポーラ
3.5ミトラス教4ヨーロッパの準備
4.1カッシオドルスとボエティウス
4.2ベネディクトゥス修道院
4.3コプト文化*1
4.4ヴィヴァリウム
4.5修道院と修道会の系譜
前回を簡単に振り返っておきます。前回もまた、視野の一方の片隅に「宇宙の始まり」を、もう一方の片隅に「グーグルのやろうとしていること」を収めながら、どんな仲間companyと一緒に生きていくか、男と女の違い、集団の組織力の違いなど、相変わらず脱線話の多い中、古代ギリシアとヘレニズムの情報文化的エッセンスを駆け足でお話しました。
思い切り絞り込んだポイントは二つ。ギリシア神話と古代アレクサンドリアの図書館でした。女の神を男の神にすげ替えたギリシア神話に見られる大胆な編集術と記憶術。都市を「世界」全体に見立てたようなムセイオン*2と図書館が際立つ特徴のアレキサンドリアを構想したアレクサンドロス大王。特に注目すべきは、図書館セラピウムの司書カリマコスによる大目録「ピナケス」の制作でした。それは世界に関する情報の検索システムのひな形だったわけです。そこには、そもそも部族、民族、クニを遥かに超えた「世界」という大きな枠組みの想定の誕生を見ることができました。人類史上初の「世界地図」(アナクシマンドロス)が作られたのもその頃です。
冒頭紹介した、マリア・ギンブタス『古ヨーロッパの神々』は古代ギリシア以前の日本でいえば縄文時代に相当する時代のヨーロッパの母系制的原像を明らかにする優れた研究書ですから、是非手に取って数々の女神像や男根像だけでも見て、インド・ヨーロッパ的な父系制社会以前の社会のあり方に思いを馳せてください。メカスの映画紹介の方に、ギンブタス関連のフィルム、ヴィレンドルフのビーナスも見られるものがありますから、参考にしてください。
ユダヤ教に関しては、「戦争の原型」(ジョゼフ・キャンベル)を作ったといわれる紀元前820年ころの予言者エリアの改革時のバール信仰者たちの殺戮を銘記しておいてください。
さて、今回は紀元前後から7世紀まで、東西の帝国の盛衰と世界宗教の成立が主なトピックである時代が舞台ですが、今回も相手にするのは膨大な量の歴史的情報です。例によって、詳細は配付資料に譲り、情報文化的なポイントとしては、二点、この頃、西でも東でも、ほぼ同時期に百科事典が作られたこと、そして後に大学へといわば進化する修道院図書館、特にヴィヴァリウムに的を絞り込んで解説します。タイトルの「世界の手鏡」は百科事典のことで、「反世界」とはキリスト教を生んだ母胎であるユダヤ教のカバラのこと、古代の情報発電所とは修道院図書館のことです。
- 世界の手鏡:百科事典
ところで、皆さんは、百科事典は好きですか?Wikipediaは利用しますか?
古い話になりますが、ライブドア元社長の堀江君は拘置所内で百科事典を読んでいた時期があったそうですが、そのときの彼の眼はなにをとらえていたと思いますか?世界をカバーする項目の記述の向こう側に再び標的にすべき「世界」を捉えようとしていたのか、それともただ各項目の記述に世界の多様性や深みを見い出していたのか、はちょと興味のあるところです。ちなみに、百科事典はEncyclop(a)ediaの訳語で、語源はギリシア語にまで遡りますが、大きな体系のもとにencyclo、教えるp(a)ediaという意味です。すなわち、百科事典が成立する背景には「世界を一つの大きな体系としてとらえる目」の成立があります。
さて、実は百科事典の成立は紀元前にまで遡ります(プリニウスの「博物誌」、「淮南子」や劉向の「七略」)。そこで注目すべきは、図書館が万巻の書物による「世界の鏡」だとすれば、百科事典は世界を項目的に網羅するもっとコンパクトな世界の鏡、さしずめ「世界の手鏡」だと言えることです。言い替えれば、百科事典の成立は情報の高度圧縮編集技術が開発されたことを意味します。もちろん、そこに世界に関する情報がすべて丸ごとコピーされているわけではありません。世界に関する情報全体への「索引」が整備されるわけです。古代末期には、他に、論理的に議論を展開するための雄弁術(キケロの「トピカ」)や歴史を記述するための新しい方法(ストラボン、司馬遷)が開発されます。他方では、帝国の拡大路線が帝国自身を疲弊させていく過程で、従来の宗教的紐帯(ちゅうたい)は弛緩し、さらに民族大移動の連鎖によって帝国が分裂、崩壊に至る過程では、より強力な宗教的紐帯としての世界宗教が生まれ、そしてヨーロッパの成立を準備するキリスト教の時代(中世)を迎えることになります。
- 反世界:カバラ
キリスト教はユダヤ教から生まれるのですが、地上で虐げられたユダヤの人々は自分たちのいわばテリトリーを心の中深く、まるで「地下」に作るしかなかったかのようにして、ユダヤ教を秘儀化していきます。ユダヤ教の歴史は見えない深みへ向かって民族共同体の記憶を迷宮的構造のデータベース(タルムード、ゾハール)として構築した運動と成果(カバラ)でした。「世界」から閉め出され抹殺されかかった民族(ユダヤ人)の情報が暗号的手法で「反世界的」に編集されることになるわけです。その深化する運動から再び地上へ向かう捩(ね)じれた軌跡(イエス、パウロ)を描きながら浮上したのがキリスト教でした。ただしそこには、エッセネ派、クムラン宗団、ミトラス教の存在が影を落としています。
- 古代の情報発電所:ヴィヴァリウム
5世紀、キリスト教が普及していく過程で、いわば行政府としての教会とは明確に区別されなければならない施設として修道院が各地に次々と作られ始めます。特にカッシオドルスが作ったヨーロッパ初の修道院図書館、通称「ヴィヴァリウム」は、パソコンの父アラン・ケイ(Alan Kay, 1940-)も注目したほど、情報技術的にも、また情報文化的にも大変興味深い施設です。キリスト教大学を構想していたカッシオドルスは聖書、キリスト教関連書物の他に、あらゆる分野のギリシア・ローマの書物をも収集しヴィヴァリウムに収蔵したのでした。修道院は瞑想(修行)空間であると同時に写本(複製)および翻訳(編集)空間でした。エリート修道士たちは瞑想を通してキリスト教という言わば心のプログラミングを深く習得し、翻訳と写本によって教義体系というデータベースをせっせと構築していたわけです。そのようないわば「情報編集空間」が後の「大学」へと進化するのです。私たちが現在所属する機関の歴史的起源は修道院にあります。
中世の修道院図書館のイメージをつかむには映画『薔薇の名前』(1986)を観るといいでしょう。ウンベルト・エーコ(Umberto Eco, 1932-)の原作(1980)を読むともっといいでしょう。ヨーロッパ中世のとある修道院を舞台にして、存在しないはずのアリストテレスの『喜劇』をめぐって殺人事件が起こり、ストーリーが二転三転する非常によくできたサスペンスです。工場のような写本室(スクリプトリウム)で大勢の写本修道士たちが羽ペンとカラムスをもって終日の作業にあたっているシーンは迫力がありました。YouTubeで"The Name Of The Rose"の公式トレーラー(1986, 2分4秒)を見ることができます。