while drinking Château Le Sartre 2001 Pessac-Léognan:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、6月、174日目。


Day 174: Jonas Mekas
Saturday June 23rd, 2007
9 min. 30 sec.

Here is another
episode of my
sitpod series--
with Benn and
Linda.

私のサイトポッド・シリーズ
のもうひとつの挿話…
ベンとリンダ。

この365日シリーズのデジタル映像編集を直接手がけているのは、これまで見ることのできた作業シーンの断片的な映像からベン・ノースオーバーとメカスの息子のセバスチャン、そして今回やっと名前が分かったリンダの三人のようだ。今回セバスチャンは登場しない。もちろん、本質的な編集の指示はメカスから出ているはずだが、出来上がるサイト・ポッドの作品に若い才能たちの発想が活かされているのかどうかは不明だ。このシリーズはあくまでメカスの新しい試みとして提示されているから、そのあたりは厳格に線引きされているのか、それとも、メカスは若者たちとの共同作業、コラボレーションに一歩踏み出しているのか、そこは興味深いところだ。

今回はこのシリーズの挿話、エピソードとある。リンダがもう一台カメラが必要よ、と言い出すと、HDのね、とベンが応ずるところから三人の会話は始まり、リンダの強硬なアンチHDカメラの主張によって思わぬ議論に展開する。そもそもHDのHって何のことだ?と問うメカスに、HDはHigh Dissolutionのことだよと答えるベン。dissolution、dissolveは原義的には分解、バラバラにするという意味で、本来有機的な全体、アナログな連続体であるリアリティをいわば機械的に細かく分けるという意味合いを持つ。ベンは高解像度のデジタル・ビデオ・カメラの利点をリンダとメカスに向かって得々と説くが、メカスにそれは誇張だろう、消費社会の先鋒を担ぐような言い方だなと突っ込まれ、リンダにはかなり強硬に高解像度のものは必要ないと反論される。高解像度カメラで撮られた映像は、いわば誇張され増幅された醜い現実であり、本当の現実ではない、それは顕微鏡で覗くがごとくに現実を覗くような行き過ぎたものだ、と。

メカスはアンチ高解像度派でもなく、かつ高解像度派というわけでもない。高解像度のデジタル・ビデオ・カメラに象徴される新しい技術やメディアをどう捉え、どう使いこなすべきなのかということを明らかにしようとしているようだ。しかしデジタル技術そのものに関してメカスは詳しくない。そこで、技術的な知識やその意義について解説する橋渡し役をベンが引き受けている。ただメカスがすぐに見抜いたようにべンはその利点をセールスマンのようにかなり誇張していた。かつてはいちいち考えてやらなければならなかった高度な操作も自動でできるんだよ、等々。ただし、ベンは狂言的な役回りを確信犯的に演じている風だ。彼は「分かっている」。三人の立場はだいたいそんな感じ。

そして「高解像度」をめぐる三人の議論は、映像論、技術論、メディア論、さらには現代社会論、文明論、人間論にまで及ぶ。メカスはデジタルなズーミングとリアルなズーミンの違い、特にリアルなズーミングの感受性について問題提起しようとしたが、二人の耳に届かないシーンがあったり、「ハイパー・リアリティ」とか「顕微鏡的文明」とかいう言葉がメカスの口から軽蔑的なニュアンスで飛び出すシーンがあったりして面白い。途中、リンダの強硬論に、勝手に続けて、とベンがサジを投げかける場面もあるが、最終的には、古い世代の技術は新しい世代の芸術、アートにとっては素材、マテリアルになるんだという以前にも表明されたことのあるメカスの考えにべンとリンダは同意する。その考えは、過去のアナログ技術的な膨大なフッテージ(撮影フィルム)を新しいデジタル技術の素材として活かすという、この365日シリーズを支える思想でもある。

テーブルの上にはChâteau Le Sartre 2001 Pessac-Léognan [Bordeaux, France]のボトルが置かれていた。そのワイナリーの名前Sartreを哲学者のサルトルに引っかけて、抑圧される自由、とか言っているメカスがいた。