保存の思想(The Thought of Preservation), Sebastian plays Kabalevsky:365Films by Jonas Mekas

ジョナス・メカスによる365日映画、8月18日、230日目。


Day 230: Jonas Mekas
Saturday, August 18th, 2007
7 min. 55 sec.

Sebastian plays
Kabalevsky
(School for Strings)

セバスチャンが
カバレフスキー(1904-1987)を
演奏する
(弦楽学校にて)

すでに二度、1月21日6月22日に登場した鈴木メソード(SUZUKI METHOD)で有名なニューヨークの弦楽学校でのコンサート。客席でプログラムを接写するメカス。これから息子のセバスチャン(1981-)がカバレフスキーのヴァイオリン協奏曲 ハ長調(Opus 48: Violin Concerto in C major, 1948)の第3楽章:Vivace giocosoを演奏することが分かる。晩年子どもの音楽教育に尽力したカバレフスキーの作品はこの弦楽学校でも取り入れられているのだろう。ピアノ伴奏は見知らぬ女性エルケ・ヴェラスケス(Elke Velazquez)。現在よりもかなり若い、おそらく、17、18歳くらいの頃の正装したセバスチャンがいる。その硬い表情と動作からかなり緊張していることが窺える。

カバレフスキーと言えば、組曲「道化師」 Op.26(1939年)の第二曲「ギャロップ」は、ジャック・オッフェンバックJacques Offenbach/1819-1880)のオペレッタ「地獄のオルフェ」(「天国と地獄」)の序曲と並んで、日本の運動会でよく使われる楽曲として非常に有名である。

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多くの家には、子どもの成長に合わせて撮影したビデオが沢山あるのではないだろうか。日本中、世界中の家庭に埋もれているそのようなビデオの記録量を想像すると気が遠くなる。それらを何らかの形で生かすことはできないものか、とちらりと考えるが、名案は浮かびそうにもない。我が家にも約20年間にわたる子どもたちを撮影した8ミリのビデオテープが100巻ほどある。それらは子どもたちの人生の記録であると同時に、共に生きて来た私と妻の記録でもある。たとえ、そこに姿が写っていなくとも。ただし、そういう場合でさえ、両親の存在や両親との関係性は何らかの形で、例えば写っている子どもたちのちょっとした表情や言動に反映しているはずである。しかも、そのような人生の記録には、撮影者の視点が生々しく反映してもいるはずだ。それは中立的でも機械的でもありえない。誰が撮ったのか分からないようなビデオはない。それにしても、我が家では現在100巻に及ぶビデオがいわば死蔵状態にある。写真アルバムもそれに近い。記録するのは簡単だが、記録をうまく保存して長年にわたって生かし続けることは難しい。保存したことがどんどん忘れられていく。記憶には記録する側面と記録を保存する側面の二つの側面がある。ただ記録しただけでは、生きた記憶にはならない。うまく保存しなければ。

メカスらが創設したアンソロジー・フィルム・アーカイブズ(Anthology Film Archives)には正に「保存の思想」とでも言える精神、アンソロジーという精神が生きている。それはメカスが個人的にも育てて来た精神に違いない。家族の人生の記録をこうしていつでも再生できるように大切に保存しているのだから。下手に保存し、その保存の記憶が消えたとき、元の記録は他人任せになってしまう。そこを誰がどう救うかということを、メカスは映画の世界で実践してきたと言える。

ところで、今や、例えばYouTubeなどを利用して、我が子の10年前のピアノの発表会のビデオ等を公開することはいとも簡単にできる世の中になった。押し入れのなかで眠っている(死にかけている)ビデオを編集して、YouTubeに投じて、インターネットを利用できる世界中の誰もが見られるように保存すること、前代未聞の共有状態に置くことが可能になった。この可能性をどう生かしたらいいかということが「保存の思想」にとっても大きな課題である。