穴巡りの消息1

思いがけず、『横浜逍遥亭』の中山さんが、私の「穴巡り」のつたない報告にブルーノ・タウトの構想につながるスマートな線を引いてくださった。非常に嬉しい。

それに刺激されて、早速私はコメントした。それをここにも再掲しておきたい。

中山さん、想像の「先」を越されました(笑)。ただ、事実と想像の区別は踏まえた上で、想像力によっていわば「失われた歴史=記憶」にどれだけ近づけるか、ということを半ば無意識に直観に導かれてやっているようです。

昔の「穴」はもう存在しないので、「多くの穴が存在した」という事実を想像の拠り所にしています。私が調査した穴は入口と壁面下部は採掘の跡が残り、上部、天井は自然に崩落してできたように見えました。それで、私としては、石山から石材を切り出して、山を壊してまでも住宅を作り始めた歴史に対して、もしかしたら先住民は自然に開いた穴を住居として穏やかに利用していた、たまには穴を掘ったのかもしれない、そんな気がしています。歴史的事実としては違うかもしれませんが。私は考古学者として考えているわけではないので、その詮索自体にはあまり意味はありません。調査は面白いですが。問題は中山さんが洞察されたように、文明的な観点にあります。

それで、私の想像の「先」では、「穴の存在」は野蛮な「石の文明」に過ぎないものを「石の文化」として愛でる浅はかさと誤りに対する静かな、でも根源的な批判につながるではないかと感じています。とにかく、どうせ何かを、住居なりを、作らなければならないとしたら、どんなビジョンを拠り所にしてプランニングするか、という点で、私も中山さんが着目したタウトの構想に非常に興味があります。(取り急ぎ、反応を。)