情報デザイン論2007 第8回 学習と教育のデザイン:自分で自分を教育するために

前回は「表現法」という観点からほぼ以下のような内容のお話をしました。

私たちは世界を相手に情報を収集し、個人として世界に向かって情報を発信してゆくほぼフリーに近い手段と環境を手に入れた。ただし、一口に情報の収集と発信といっても、「機械的」にできることではない。いくらインプットしてもうまくアウトプットできなければ情報は死蔵してしまいかねず、逆に何をアウトプットしたいのか、その見通しがなければ、何をインプットしたらいいのかさえ分からない。その意味で、インプットとアウトプットを安易に分けて考えずに、両者を好ましく生産的に循環するサイクルとしてイメージして、その全体を支える世界観(価値観、人生観)をしっかりと持つことが大切である。その上で、必要に応じて、機会を積極的にとらえて、うまくアウトプットしてゆく、うまく物語ってゆくことが大切である。しかし、うまく「物語る」にはどうすればいいか。つまり、物語り「方」、「表現法」が重要になる。その表現法は、優れた先例から学ぶのが一番である。

というわけで、何人かの先輩たちの優れた表現例を参照したわけでした。

そこでも指摘しましたが、そのような優れた例をどのように探したらいいのか、どうしたら出会えるのか、そしてそのような例をどのように受け止め、活かしたらいいのか、という点についても考えておかなければならないということでした。さらに、その前段として、そもそも若いうちは半ばがむしゃらに場合によっては盲滅法にでもできるだけ多くの情報をインプット(学習、経験)しておくことが実はのちのち大きな力になるということも付言しました。

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さて、何度もお話してきたように、私たちは一個人として世界規模で整備されつつある高度な学習環境と表現メディアを手にした時代を生き始めています。ただし、多くの人がそのような新たなフロンティアを前にしてまだ手探り状態にある、試行錯誤している状況にあります。しかもそこでの体験をたんなる趣味を超えて生活の基盤にまでつなげるにはどうしたらいいかという現実的問題になると、一筋縄ではいかない難しい問題があることをも知りました。ただ、そこまでは少なくとも私たちが置かれている現状の無視できない局面の認識としてしっかり押さえておくべきことだと思います。言い換えれば、狭義の情報デザイン、情報アーキテクチャーが問題なのではなく、社会全般と密接に連動した人生全般をデザイン、建築するという意識、自覚こそが促される必要があるということです。

それと関連して、もう一つ重要なことは、私たち自身が様々なレベルで一体何を望むかということです。どんな人間でありたいのか、どんな生活をしたいのか、どんな社会であってほしいのか、という「希望」は環境から降って湧いて来るものではありません。自分の中から立ち上げるしかない。それがどんな姿をしているのかを知るためにも、学習と表現および教育の新たな環境を存分に活用すべきなのではないかと思います。

つまり、自分のなかに、自分の周りに、自前の学習と表現と教育の環境を作り上げようとすること、です。何を学びたいか、誰に何を伝えたいか、誰に何が教えられるか、この三つ巴の志向性をつねに意識、自覚しながら、自分のなかに、自分の周りにそれらが相乗効果をあげるように循環させてゆくことができる環境を作ることが、とりあえず、大切なことだと思います。それを試行錯誤しながらしばらく続けてゆけば、自ずと仕事への道も拓かれてゆくでしょう。今回はそのあたりのことを少し掘り下げてお話する予定です。

講義項目:

1仕事と生活のデザイン
2認識と表現のデザイン
3記録と公開のデザイン
4学習と教育のデザイン