ブラジルとロシア

何かの符合のように、今日、別々に注文してあったレヴィ=ストロースの「SAUDAGE DO BRAZIL---A PHOTOGRAPHIC MEMOIR」とゲンナジイ・アイギの「FIELD - RUSSIA」が同時に届いた。前者に関しては今福龍太さんに刺激されたという経緯があった(「レヴィ=ストロース+今福龍太」)。

「ブラジルにいる間だけ私は写真家だった」というレヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」の「悲しさ」=「サウダージ」を定着した写真たちはなぜか深く心を打つ。若きレヴィ=ストロースの心の震えが感じられるからだろう。

「FIELD - RUSSIA」は表紙の写真がちゃんと見たかった。英訳者ピーター・フランス撮影だった。アイギの故郷のチュヴァシのどこかの田舎道だろう。舗装なんかされていない。凹凸だらけの土の道。その上に輪になって踊る八人の男女の写真が薄く重ねられている。魅力的だ。

ブラジルとロシア。南と北。私の中の「南と北」が感応する。

11月25日に拙訳したアイギの詩「SONG FOR MYSELF」(p.51)を改めて確認した。「続き」はこうだった。

in some way an answering -song- to such daytime and lucid grief
like a wound in the hand but you look
and there is no looking away (and it seems this only remains
as some business and life)
  1979

「手の傷のような昼日中の明るい悲しみ」とはレヴィ=ストロースの感得した「希望(未来)でもあるような悲しさ(過去)」としての「サウダージ」を思わせる。日々の淡々とした生業としての人生だけが残る。そんな悲しみを帯びた希望の「歌」こそがこの私の人生という大きな「問い」に対する「答え」である、ということか。