Nowhere=Paradiseに対する違和感


昨日のエントリー「Langasさんの『リトアニアへの旅の記録 2001年夏』:日記と本の境界の揺らぎ」の終りで"I Had Nowhere to Go"(1991)というメカスの著書のタイトルの"Nowhere"の意味に対するこだわりについて少し書いた。

実はそのひとつの背景に、次のような村田郁夫氏の「解釈」への共感と微かな違和感があった。

ジョナス・メカス著『どこにもないところからの手紙』(asin:4879956546)の訳者である村田郁夫氏は、その「訳者あとがき」のなかで興味深い告白をしていた。

訳者はこの『どこにもないところからの手紙------Laiškai iš niekur』のタイトルに長いこと意味が判然とせず、まごついたことがある。(中略)リトアニア語のタイトルを英語に訳すとLetters from Nowhereとなる。だがNowhere(どこにもないところ)の真意は何だろう?(195頁)

そして村田郁夫氏は、ある集いで同席していた林浩平氏から、それはトマス・モアの『ユートピア』(1516年)、つまり理想郷と関係があるのではないか、と示唆され、ピンと来たときのことをこう書いている。

utopiaという単語はトマス・モアによるギリシア語をもとにした造語で、u+topia(ギリシア語ou+topos)つまりno+place「どこにもない場所、理想郷」を意味する。とすると「どこでもないところ」とは、メカスの映画の芯をなしているParadise「パラダイス・楽園------幸福の瞬間」を匿していることになりそうだ。「どこにもないところからの手紙」には「楽園からの手紙」が含意されていると今では解釈している。これらのメカスの手紙のなかに何度「楽園」が出てくることだろう。(195-196頁)

Nowhere=Paradiseという解釈は間違っていないと思う。理想郷、楽園としての"Nowhere"。確かに、メカスは『どこにもないところからの手紙』の中でも他でも「幸福の瞬間」、「楽園」、「楽園の断片」という語(句)をよく使う。だからNowhere=Paradiseという解釈はその限りで全く正しい。正しいが、しかし、何かがこぼれ落ちているように感じる。

その微かな違和感について以下に少し書いておきたい。

微妙な違いではあるが、メカスのNowhere=Paradiseは、少なくとも、トマス・モア以来のユートピア思想やその実験の系譜上で言われる理想郷、楽園ではないと思う。あくまでそのときどきで関係している現実の場所で具体的に開かれうる、そして生きられうる、それ自体優れて現実的な場所、世界としてのNowhereである。この場合の"No"が否定しているのは、現実の場所ではなくて、むしろ現実の場所の具体性を見えなくする人間の側の曇った目(欲望)の方である。だから、そこがどこであっても、曇りを晴らせば、人はそこをいわば「楽園の相のもとに」見て生きることができるはずである。heiminさん(id:heimin)のように。

メカスは個々の具体的な場所にNowhere=Paradiseを見出すことが、すなわちそれを創造することになると考えているはずである。だから彼は自分も無縁ではないはずの「曇り」(欲望)を晴らすためにも「カメラの目」を通して可能なかぎり現実の場所の細部をよく「見る」ことを続けているのだと思う。そうして見出されるNowhere=Paradiseはメカスにとってもある意味では「断片的」ないしは「瞬間的」にしか存在しえない世界かもしれないが、別の意味では「永遠」に存在するはずの世界である。メカスが尊重するペトラルカをはじめとする「芸術家」とはそのような世界の記憶、記録を継承する者たちである。

しかし、そのようなNowhere=Paradiseが映画や詩を通していわば「こちら側」に姿を現したときには、普通それは不安定極まりないかりそめのごとき姿、異形の姿をとる。実際にも、映画や詩を作ることは、巧妙かつ杜撰に幾重にも意味づけられた息苦しい現実の場所のあちらこちらに、そのような意味づけを無効にするような特異な点、瞬間を発見し、それらを手間と時間をかけて繋いでゆくような作業であるはずだからである。

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