映画と写真の「間」:ロラン・バルトとジョナス・メカス


From Jerome Hill's window, Cassis, 1966. From the film, Notes for Jerome

Winter in Soho, December 1977. From the film, Paradise Not Yet Lost


ロラン・バルト(Roland Barthes, 1915-1980)の古い研究ノート「第三の意味 エイゼンシュテインの映画からとった何枚かのフォトグラムについての研究ノート」(1970年)*1を読みながら、メカスの「静止した映画」のことを考え始めていた。

ロラン・バルト映画論集 (ちくま学芸文庫)

ロラン・バルト映画論集 (ちくま学芸文庫)

ロラン・バルトはかなり「ひねくれた」(褒め言葉)映画の観方をした人で、そこからイメージ一般の記号としての深い理論を練り上げた人である。「第三の意味」とはその成果を指す言葉だが、要するに、イメージをテクストのごとく読解する広い意味の地平というか層のことである。それを彼は「鈍い意味」とも呼んだ。明白すぎて非常に捉え難い意味である。「フォトグラムPhotogram)」とは元来は写真の一技法のことを指す用語だが、バルトはそれを映画の一コマ一コマの映像を指すのに使った。しかもその語によってさらにそのような映像の持つ「テクスト性」というか「文字性」を示唆した。

そのロラン・バルトの映画に対するひねくれた観方に一脈通ずる精神で昔から映画を作ってきたのがジョナス・メカスだと気づいたのだった。しかもメカスはロラン・バルトの言う「フォトグラム」の可能性を模索するような未曾有の作品づくりさえ行っていた。

90年代に、ジョナス・メカスは自作の16ミリ映画フィルムから選んだ数コマ(フレーム)を印画紙に焼き付けるというメカスらしいプライベートなプロジェクトを始めた。それはある経緯*2から友人たちの協力もあって、そのうち世界各地で展覧会を開くまでに発展した。「静止した映画」(Films immobiles)と呼ばれる百枚に及ぶ「作品」が96年から97年にかけてパリを皮切りに、ニューヨーク、エジンバラ、そして東京などで公開された。

フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画 (フォト・リーヴル)

フローズン・フィルム・フレームズ―静止した映画 (フォト・リーヴル)

  • 作者: ジョナスメカス,フォトプラネット,Jonas Mekas,木下哲夫
  • 出版社/メーカー: フォトプラネット
  • 発売日: 1997/08
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「静止した映画」については 365日映画の10月27日(300日目)でも少し触れたが、『フローズン・フィルム・フレームズ――静止した映画』(木下哲夫訳、河出書房新社)というこんな本のなかの第一部に、365日映画10月29日にも登場したパリのアニエス・ベーの画廊galerie du jour - agnès b.で開催された展覧会のカタログ*3の翻訳と木下哲夫氏によるメカスへのインタビュー「写真と映画のあいだで」(1996年)が収められている。

そのカタログの冒頭にメカスのこんな告白が載っている。

 これらの映像はわたしの映画からとりだしたものだ。しかし、もうわたしの映画ではない。また写真でもない。それでは、何なのだろうか。わたしの執念。映画のコマを静止させる可能性にわたしはとりつかれた。たまたま好奇心をそそられて始めたところが、おもしろくてやめられなくなった。この映像が何なのか。本当のところはわたしにもわからない。それでも、記憶の一部であることはまちがいない。そうした記憶のかけらをくりかえし見るのが、わたしは気に入っている。
 それから、このような映像は「商業的」な映画からは得られないことも分かっている。わたしが「コマ撮り」をするからこそ、こんな映像ができる。それが面白いし、嬉しくてならない。(中略)わたしは今、ほんとうにこれまでだれも経験したことのない世界にいて、この先どこに行くのか、この新たな冒険がわたしをどこに連れて行こうとしているか見当もつかないでいる。

ジョナス・メカス
(9頁)

訳者の木下哲夫氏によれば、メカスが「映画のコマを静止させる可能性」にとりつかれたのはもっとずっと以前、1963年頃に遡る。

メカスはつねにボレックスを携帯しながら、まるでスナップ写真を撮るようにして、コマ刻みで短く何度もシャッターを押す。彼がそうしたやり方で撮影するようになり、ひとコマずつ独立したシングル・フレームの可能性に興味を持つようになったのは、1963年頃からだという。その意味では、メカスは以前から「写真と映画のあいだ」に映像表現の可能性を探っていたと言えるかもしれない。それにしても、この新しいシリーズは既成のどんなジャンルにも収まりきらないユニークな作品である。インタビューにあるようにメカスが生涯にわたって一本の映画を撮り続けていると考えれば、彼の一つ一つの映画作品はそれぞれそこから抜き出され、編集作業を通して新たに息を吹き込まれたその断片であり、「フローズン・フィルム・フレームズ」は、さらにその断片の断片が新たな生を得て現れたと言えるだろう。それらは、スクリーン上のイメージの運動を「自然」なものと見せる通常の映画の技法が私たちに忘れさせている映画という知覚の始源的な驚きを呼び覚ます。そして同時に、絶えず運動し続けている世界のなかで写真という「静止」したイメージが持つ異様なまでの力を再確認させる。(123-124頁)

インタビューの中でメカスは「静止した映画」制作の技法に関してこう述べている。

この作品は、私が撮影した映画のコマをチバクロームでそのまま焼き付けたものです。サウンド・トラックの部分もそのまま入れてあります。作品制作の手順としては四段階あって、まず映画のフィルムからスライドを起こします。そしてそのスライドをもとにポラロイドで複写します。このポラロイドはどれを拡大するか選ぶためのもので、選ぶときには、映画の中でコマからコマの移り変わりがよく分かるものを意図的に選ぶというやり方をしています。こうして選んだものをもとのスライドからバチクロームに焼き付けるわけです。パリでは八〇×五〇センチぐらいのプリントを展示しました。カタログとして出た写真集は、ポラロイドのほうを印刷したものです。(43-44頁)

そんな風にして出来上がった私もかなり惹かれている「作品」たちは確かに映画でもなく写真でもない。両者の中間に位置する。しかしその中間の意味、さらに木下哲夫氏の言う「映画という知覚の始源的な驚き」と「絶えず運動し続けている世界のなかで写真という『静止』したイメージが持つ異様なまでの力」の「間」の意味についてはまだ誰もはっきりと語っていない。そんなときに、ロラン・バルトの「第三の意味」や「フォトグラム」という見方が浮上してきたのだった。

*1:ロラン・バルトの1960年から1970年までの映画に関する論考を集めた諸田和治氏による翻訳アンソロジーロラン・バルト映画論集』(ちくま学芸文庫、1998年)の冒頭に収められている。

*2:アンソロジー・フィルム・アーカイブズの資金集めという現実的な理由があった。

*3:Jonas Mekas, Films immobiles, une célébration, Galerie du Jour/Agnès B., Paris, 1996