Hugo Simberg : The Farmer's Wife and the Poor Devil, 1899, 19x12,9, paper (A II 968:34) *1
前エントリーで取り上げた『フローズン・フィルム・フレームズ――静止した映画』(木下哲夫訳、河出書房新社)の第三部に、以前、"Nowhere"の解釈へのこだわりから、「Langasさんの『リトアニアへの旅の記録 2001年夏』:日記と本の境界の揺らぎ」と「Nowhere=Paradiseに対する違和感」(2008-01-14)で取り上げたジョナス・メカスのI Had Nowhere to Go(1991)の前書きの全訳が「私には行くところがなかった------亡命までの日々」と題されて収められている。
その中でメカスは「リトアニアの悪魔」について面白いことを語っている。
リトアニアの悪魔はけっして邪悪ではない。何千という民話に登場する悪魔は、どちらかというと悪戯(いたずら)が好きで牧羊神(Pan)のような遊び好きの妖精、ひとが困っていれば助け、そのとばっちりで自分が面倒にまきこまれてしまう。ひと言で言うと、人間が好きでしかたがない。リトアニアの家庭のあちこちに小さな悪魔の彫像が置いてあるのは、好運と幸福の徴(しるし)なのだ。(105頁)
リトアニアではないが、素天堂拾遺の「落ち穂拾いからダイヤ こんなやさしい〈死〉や〈悪魔〉があったろうか」(2008-01-14)で取り上げられた19世紀末のフィンランドの画家ヒューゴ・シンベリ(Hugo Simberg 1873-1917)の悪魔の絵(上)を思い出した。シンベリについては、私も昨年の3月20日のエントリー「傷ついた天使」(1903) Hugo Simberg:365Films by Jonas Mekasで紹介したが、「やさしい悪魔」のことは知らなかった。
(追記)肝心なことを書くのを忘れた。それで、何が面白いと感じたかというと、すでに多く語られていることかもしれないが、一般にネガティブに表象されるものをひょいとポジティブに転換するリトアニア人やフィンランド人のユーモア感覚である。メカスによれば、リトアニアの場合にはその独特の複雑な歴史も手伝って、キリスト教という大きな悲劇的な象徴ないし表象のシステムがユーモラスに変容したという背景があるようだ。