追憶(reminiscence)*1とは一般に遠い過去の記憶を現在に喚び出すことと説明される。しかし、人間の場合には、機械的な記憶と違って、喚び出すということは、記憶が全体的に「更新」されることを意味する。つまり現在という時点における編集が施される。その意味では追憶は創作であると言える。そもそも、「記憶」という過去のイメージに引き寄せられがちな概念にはあくまで現在における「思い出す(力)」が含まれている。思い出せなければ、それが記憶されていたことさえ知られえないのだから。
メカスの『セメニシュケイの牧歌』の特徴のひとつに、植物の語彙の豊かさを挙げることができる。わずか26の詩、100ページ余りの詩行のなかに登場する植物(野菜や果物を含む)だけで下のように60を数えることができる。しかもその中の一部は四季を通じて役柄を変えて何度も登場する。これらは幼少期の経験をテクスト的に構成する要素だったのだろうか。それとも、二十歳そこそこのメカスが難民収容所で構築した経験の要素なのだろうか。
大麦、カラス麦、ジャガイモ、ライ麦、亜麻、苔、クローバー、ハンノキ、ネコヤナギ、リューキンカ、ネズノキ、ハシバミ、フキタンポポ、クサノオウ、ハルノゲシ、楓、白樺、松、赤蕪、スゲ、エンドウ、トクサ、ゴボウ、ヤマガラシ、楡、ホップ、ヤマナラシ、クロハンノキ、柳、百合、イグサ、オーク、ハシバミ、ラズベリー、野いちご、菩提樹、クロウメモドキ、ハナミズキ、ヤグルマギク、ノダイコン、ヨモギギク、イブキジャコウソウ、赤クローバー、いちご、ビート、ダリア、ミザクラ、ライラック、リンゴ、洋梨、菖蒲、ナナカマド、白楊(ハコヤナギ)、キャベツ、小麦、地衣、ガマズミ、アザミ、ナツユキソウ、樅の木
訳者の村田郁夫氏はこう書いている。
半世紀まえメカスは難民収容所で胸中に湧き上がる詩行を書き綴り、失われてゆくであろうセメニシュケイの村の生活を記録にとどめた。そこに書かれている小川や松林はいまもその俤を残している。だが村人たちがかつて営んでいた共同体の生活はもうメカスの詩行にしか残っていない。
『セメニシュケイの牧歌』は村の春夏秋冬の風物を記しているという点において、また、失われ、帰らぬ過去の記憶を今日に伝えているという点で、二百年以上まえに書かれたリトアニアの古典、ドネライティスの叙事詩『四季』*2と相通ずるところがある。その意味で『牧歌』は今世紀の『四季』と称することもできる。
(「訳者あとがき」152頁)
*3
「失われる」とはどういうことか。物質的に失われることと記憶から失われてしまうこととの間の本質的な違いは何か。
*1:reminiscence: recall to mind of a long-forgotten experience or fact(Webster Online Dictionary)
*2:村田氏が触れているリトアニアの古典、ドネライティスの叙事詩『四季』に関して、ウェブ上には詳しい日本語情報は存在しない。ヴィータウスタス・バルカウスカス氏特別講義:リトアニアの歴史・文化・音楽(2005年5月27日 東京大学文学部3号館7階スラヴ文学演習室)の記録のなかにこうある。「リトアニア語で書かれた最初の文学の作者は、18世紀のドネライティスで、叙事詩です。」