一粒の麦


ジョナス・メカスは、14年前、三度目の来日の際に訪ねた沖縄で、土着の信仰がまだ生きている土地、聖地を訪ねた後に、石垣島川平生まれの、ほぼ一貫して沖縄をテーマにした映画を制作してきた高嶺剛さんとの対話の中で、高嶺さんの沖縄の「マブイ(魂)」を大切にしているという発言を受けて、次のように語りながら、部屋の外から微かに聞こえて来る鳥の声や葉擦れの音に注意を促した。

聖なる場所は一粒の麦のようなものなんだ。一粒の麦は大きな文明よりも、何物よりも強いんだよ。一粒の麦が落ちて、やがて大地に広がるように、どんな力よりも大きな力を秘めている。あなた方(沖縄に人たち)にはそれがある。そして映画もまたその麦の一粒なんだ。沖縄の風の音や鳥の声が聞こえるだろう? ほら、私たちに話しかけているんだよ。

 ドキュメンタリー番組「映像作家ジョナス・メカス・OKINAWA・TOKYO思索紀行」(1996年)より


(この番組の対話では余計なことにメカスの語り部分に日本語の吹き替え音声が大きく被っていて、せっかくのメカスの生の声が聴き取れないのが非常に残念である。字幕で十分である)


メカスは高嶺さんと会話すると同時に沖縄の樹や鳥とも、つまり沖縄の風土とも常に会話していたのだった。非常に印象的な場面だった。高嶺さんの故郷沖縄への直接的なこだわりとはある意味で対照的に、故郷を奪われた体験を持つメカスはどこへ行こうが、そこで出会う樹を見上げると、故郷リトアニアの樹のことをまざまざと思い出すという。記憶が強烈に甦ると。それが自分にとっては現実(real)な体験だと。その意味で他人がどう思おうが、自分は現実主義者(realist)であると彼は言う。それは、単に失われたものへのノスタルジーではない。というのも、すべてはいずれ失われるのだから、とある時彼は語った。目の前の現実と過去の記憶の間をどれくらい自由に行き来できるかが、目の前の現実をよい意味で変えるきっかけも生まれるような、世界をより深くより広く生きる鍵なのかもしれない。


参照