サンフランシスコ・クロニクルの死亡広告(Death Notices)

前エントリーを書きながら、滞米中に新聞のお悔やみ欄に感動したことを思い出した。そのときの記録を懐かしく読んでいた。以下はその記録で、「カリフォルニア通信17」(2004年10月1日)の一部である。


こちらの新聞で先ず目を引くのは写真の素晴らしさです。日本の新聞に掲載される写真とは違って、ほとんど芸術写真のようなフレーム、アングルの見事な写真が多数使われています。しかも大きなサイズの写真が多い。それを見るだけでも楽しいほどです。ただし、印刷は値段に比例していて、ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ=Wall Street Journal、1ドル)は日本の新聞並み、サンフランシスコ・クロニクル(SFC = San Francisco Chronicle、月曜から土曜日までは50セント、日曜版が1ドル50セント)はインクの色数が16色と少ない、パロアルト・デイリーになると白黒でしかも触ると指が真っ黒になる、といった具合です。


2004年8月24日撮影

SFCを毎日読むようになってから、気になり始めたのは、特徴のある死亡広告(Death Notices)でした。生前の写真、時に女性の場合は若い頃のおそらく一番美しかった頃の写真付きで、故人の生涯に関する個性的な紹介が掲載されたりします。もちろん、文章だけの極めて簡潔な広告もあります。父の死後まもないということもあってか、僕が自然と惹かれるように注目しだしたのは、アメリカでは、近親者、愛する者の死そのものをどのように表現するのかということでした。日本でも例えば、死、死去、死亡、逝去、逝く、永遠の眠りにつく、等色々な表現があります。僕自身、父の死を第三者に伝える時に、どの表現を使うべきか迷った経験があって、アメリカではどうなんだろう?と素朴な疑問が湧いたのです。意外なことに、というか、或る意味では当たり前というか、僕が日本語で使い分けた表現にほぼ相当する表現が英語でも使われていました。例えば、最も頻用されているのが、died、あるいはdied peacefullyで、以下僕が感じた限りでは、passed away (peacefully)、entered into restまたはat rest、passed peacefully in one's sleep、stepped over to be with one's husband or wife、といった頻度順でした。宗教、文化、言語の違いを超えた死生観の共通性に僕は改めて感じ入りました。


2004年8月24日撮影

そして或る死亡広告で僕は次のような故人を偲ぶ率直な、形式的ではない言葉に出会いました。「彼の人生はいつもと同じように彼の家族と彼が愛した人たちに囲まれて終わりました。彼の意志によって自宅で」。さらに、僕が感動したのは、これは日本では見た事がないよな、と思ったIn Memoriamという広告でした。その日によって死亡広告頁の最後に掲載されていたりいなかったりします。例えば僕が思わず目を留めたそれは次のような内容でした。「10年経つかな。でも今でも君を愛してるよ。これからもずっと」。すでにこの世には存在しない故人へ向けられたメッセージが公に開かれることの意義はにわかには掴めない深さがあるような気がしました。現に、全く関係のない僕がそれをたまたま目にしてある種の感動を経験したのですから。日本では仏教の知恵なのでしょうか、愛する者を失った心の傷を時の経過に沿ったプログラムによって癒す工夫がなされ、ある時を境に故人を忘却しないためのプログラムが実行されるようになっています。それに対応するキリスト教的工夫の世俗版の一つと言えるのかどうか分かりませんが、このIn Memoriamはあくまで個人の意志による故人の反忘却宣言である点に僕は日本では出会ったことのない潔い愛情表現の輪郭を感じ取っていたのかもしれません。しかもそれが新聞に公開される社会のあり方に一種の羨望をも抱いていました。言い換えれば、個人的感情の儀礼的ではない直接的な表現が社会的に流通する風通しの良さに。しかし、こう書きながら気づきましたが、やはりもしかしたらそれはキリスト教の「神」への誓に通じるメッセージなのかも知れませんね。