『シカゴ・マニュアル』はとってもクールだ


The Chicago Manual of Style(The Chicago Manual of Style, The University of Chicago Press, First edition published 1906)

この通称『シカゴ・マニュアル』はとってもクールだと思った。鈴木一誌氏によれば、この本は「編集者のマニュアル」、「本づくりのバイブル」とも呼ばれ、文字組、表記、句読法など、英語印刷物をつくる際のルールを記したいわば「書物についての書物」である(『ページと力』157頁〜158頁)。現在、オンライン版『シカゴ・マニュアル』を利用することができる。

現代思想好きの人なら、鈴木氏も引用しているように(『ページと力』160頁〜161頁)、あのスラヴォイ・ジジェクがこの本をやり玉に挙げて、出版社に対してルールを逆手に取ったひねくれた仕返しをした次のような逸話を思い出すかもしれない。

私の英語で書かれた最初の著書のひとつが完成したとき、出版社はすべての引用文献を悪名高いシカゴ・マニュアル・スタイルで示すようにいってきた。このスタイルでは、本文中では著者の名字と出版年と頁数を記載するのみで、完全な引用文献目録は巻末にアルファベット順でのせることになっている。私は出版社に仕返ししようと思い、聖書からの引用にもこのスタイルをつかった。
(『全体主義 観念の(誤解)使用について』中山巌・清水知子訳、青土社、2002年)

全体主義―観念の(誤)使用について

全体主義―観念の(誤)使用について

しかし日本の読者としてはこの話を真に受けるわけにはいかない。ジジェクの仕返しは、英語印刷物におけるシカゴ・マニュアル・スタイルという確固たるルールあってこそ意味をなす逸脱的パフォーマンスだからだ。それよりも、精神分析にも造詣の深いジジェクですら、書物の「無意識」ともいうべき「ページネーション」のアーキテクチャーには少々無頓着である一面をのぞかせているところこそがエピソードとしても面白いと思う。つまり、彼は原稿と本の境界を理解していないように見えるということ。

ジジェクはさておき、実はこの『シカゴ・マニュアル』の存在の大きさを私は小林章氏に教えられたのだった。『欧文書体』の57ページに組版ルールにとっては象徴的だと思えるひとつの小さな間違いが発見された。それは「数百年かかって練り上げられた欧文の組版ルール」の意義を概説する中にあった。引用符の用法に関して、引用に引用が入る場合のアメリカ式とイギリス式の二つのスタイルの違いを例示するために使用された図版に、オダマキの種のような小さな「間違い」を発見した読者からの指摘があったという。


『欧文書体』57ページの「間違い」

デザインの現場』103ページ「訂正」

小林氏は即座に『デザインの現場』(2008年2月号)に「お詫びと訂正」(103ページ)と題された非常に丁寧な内容のコラムを載せた。その対応の素晴らしさに感動しつつ、そこで言及されている『Chicago Manual of Style』と『Oxford Guide to Style』の存在が非常に気にかかったのだった。小林氏はその二冊で「間違い」を確認し、訂正している。

アメリカの一般的な組版ルールと思われる『Chicago Manual of Style』、あわせてイギリスのオックスフォード大学出版局の『Oxford Guide to Style』を参考にして調べたところ、図版のコンマを引用符の内側に入れるべきところを外側に出してしまったという間違いに気づきました。また、同じ文章の最後にもピリオドが入るべきでした。(103ページ)

ちなみに、欧文の組版ルールそのものの意義に関して小林氏はこう述べている。

それは簡単に言えば「文章の理解を助けるための約束事」です。個人の好みで決められない、ましてや「日本風にアレンジ」など通用しない次元です。組版ルールを守ることは決して古い慣習に引きずられることではなく、読者が情報を有効に引き出すための手がかりをきちんと伝えることなのです。わずかの手間ですから、まず自分は基本を踏み外さないプロだということを示して、その後のタイポグラフィの世界で思う存分遊んでください。(『欧文書体』57ページ)

この事例から私は一見目立たず些細な違いに過ぎないと思われる表記であればあるほど、実はその表記法の選択と決定には迷うもので、そういう場面でこそ目立たないが実は大きな力を発揮しているのがルールであるという一種の逆説的なルールの真実というか重要性を学んだ気がした。

話が前後して恐縮だが、そんなわけで、私は小林氏の「間違い」で、『シカゴ・マニュアル』の存在を強く印象づけられ、その後、すでに何度か言及した「ページネーションのための基本マニュアル」の素性を調べていくうちに、実は「ページネーションのための基本マニュアル」の制作に鈴木一誌氏を駆り立てた大きな要因が『シカゴ・マニュアル』との出会いであったことを知ることになったのだった。

『ページと力』の「3 ページネーション」では「『シカゴ・マニュアル』との出会い」にそれこそしっかりとページが割かれている。鈴木氏は『シカゴ・マニュアル』の意義を分かりやすくこう述べる。

『シカゴ・マニュアル』には、イタリックで組まれた文章の末尾の約物を、イタリックのままにするべきか、立体(ローマン)にもどすべきかなど、組版に関する指針がこと細かく記されている。目次の前に前書きが来るべきか、来ないほうがいいか、来るとしたらどうすべきか、あるいは献辞はどこに載せるべきか、キャプションの付け方、図版の出典の書き方まで、表記をどうするか委細をつくして書いてある。砂漠のまんなかに住んでいても、この一冊を先生にすれば、人に笑われない本ができる可能性がアメリカ合衆国にはあった。(161頁〜162頁)

それに比べて日本の組版の現状は……。それなら自分で作るしかない!というわけだった。

ちなみに、アメリカでは組版には『シカゴ・マニュアル』を、図表やグラフ表現には通称『タフテ』(Edward Tufte, The Visual Display of Quantitative Information, Graphics Press, 1983)を参照するのが通例となっているようだ(160頁)。


Edward Tufte: Books - The Visual Display of Quantitative Information

イギリスには通称「オックスフォード・ルール」ないしは「ハーツ・ルール(Hart's Rules)」が存在する。具体的には、39版を数えるHart's Rules for Compositors and Readers at the University Press Oxford(Oxford University Press, First edition published 1893)のことであり、これには第38版の邦訳『オックスフォード大学出版局の表記法と組版原則』(小池光三訳、1983年)がある。


オックスフォード大学出版局の表記法と組版原則

それが大幅に改訂、拡張され、「21世紀のハーツ・ルール」と銘打たれて2002年に出たのが小林章氏も参照した『Oxford Guide to Style』(R. M. Ritter, The Oxford Guide to Style, Oxford University Press, 2002)である。『シカゴ・マニュアル』に匹敵する規模の大型本である。

そういうわけで、鈴木一誌氏は、スラヴォイ・ジジェクのような思想家が高度なパフォーマンスでひと暴れできるためにも、日本に『シカゴ・マニュアル』や『オックスフォード・ガイド』に匹敵するような出版や印刷の世界の情報アーキテクチャーの構築が急務であると、10年前に訴えて、自分でその足場になるもの「ページネーションのための基本マニュアル」を制作していたということに、改めて感心した。そして私にとってはいわばこの空白の10年間に日本の出版・印刷界のそのあたりの常識はどう進化したのかしていないのかちゃんと知っておきたいと思う。