築地体パラダイム

これらの美しい仮名書体は、明治10年代末から30年代中葉にかけてデザインされた通称「築地体」を大日本スクリーンが復刻・翻刻したデジタル・フォント「日本の活字書体名作精選」のうちの代表的な三書体である。実はこれらの書体の美的洗練の背景には文字における明治維新ともいうべき革命があった。


「日本語の書体」と書くときに違和感があった。どうしてだろうとずっとアタマの片隅で思っていた。日本語と言っても、漢字と仮名、時にはアルファベットという出自の異なる文字がごく普通に混在しているからというだけではなかった。同じ「明朝体」という書体の中で何かが蠢いていると感じていた。

近代日本活字史は、明治2(1869)年11月に本木昌造が上海から招聘した美華書館の旧館長ウイリアム・ギャンブルが、美華書館所有の印刷機を含む印刷機材と活字および鋳造機材を携えて来日し、翌3年3月までの4ヵ月間日本人に活字鋳造法と印刷術を教えたことに始まる。そして美華書館製の明朝体活字が複製され、そこからひたすら改刻を続けていくことによって、「日本語らしい」明朝体が作られていくことになる。しかしどこかすっきりしなかった。

府川充男著『印刷史/タイポグラフィの視軸』(asin:4916043820)の「近代日本活字史の基礎知識」(11頁〜48頁)を読んでいて、アタマの中の霞が晴れた。活字の世界でもいわば「明治維新」が起こっていたのだった。政治体制の変革後、しばらくしていわば文字体制が変革されたのである。それは単に従来の木版等から金属活字版へという「版式」の変化だけでなく、それにともなう「書風」の変化をも含めたより大きな変革である。その変革後の文字体制を府川氏は「ポスト築地体」と呼んでいる。

明治20年代まで来てしまいますと、「築地体」というような活字の書風的定型が確立される。活字の形姿もほぼ固定していきます。明治20年代からこっちといいますと百二十年ちょっと、その間に起きたことを文字の書風の変化として考えてみますと実はもうないんですね。殆どない。われわれは、<ポスト築地体>という場所にずっと置かれ続けている。
(中略)
つまり明治10代––30年代中葉くらいにこのへんの書風(築地活版の仮名書体)が殆ど展開される、そこから後ろは、築地体の達成した地点をちょっとずつ敷衍させているだけで百年以上もやってきているわけです。版式は変わってきましたが、書風的な洗練というのは本質的にはこのあたりで止まっているということを今更ながら感じてびっくりします。
(41〜42頁)

府川氏の言う「<ポスト築地体>という場所」は、「築地体パラダイム」と呼んでもいいだろう。明治中頃までに洗練の極に達した「築地体」が体現する書風=形がその後現代にまで続く書体のモデル、範型でありつづけているというわけだから。

ここで、最も注目すべきだと思うのは、版式の変化に伴う書風の変化、洗練の中身である。そこには、仮名の二重の闘いとも言うべき少し込み入った事情があった。どういうことかというと、上海から輸入された明朝活字は当然のことながら中国語用の漢字であった。日本語印刷のためには、それに合わせて仮名を作らなければならない。したがって当時のデザイナーたちに課せられた課題は、従来のくねくねと連続する連綿行草を切断し各文字を四角の中に自立させると同時に明朝体の漢字の形姿に負けない独自の質(美)をそなえさせることであった。これは現代の私たちの想像をはるかに超える至難の技だったと思われるが、当時のデザイナーたちはその困難な課題を比較的短期間に見事にやり遂げたのである。私たちはいわばその「貯金」でいまなお食べているわけである。そのあたりの詳しい経緯についてはこちらを。