カタカナ(片仮名)の素性

カタカナって不思議な文字だと思っていた。ハイカラでどこか気に障る雰囲気を持ち、でも実際には八面六臂の活躍をしている。明治生まれの祖父母が文章やメモを漢字カタカナまじりで書くのを不思議な気分で眺めていた幼い頃を思い出す。同じ仮名でも、カタカナはひらがなとは違って、複雑な「風」を孕んでいると感じていた。

府川充男氏は片仮名のルーツに触れながらその歴史をこう要約している。

平仮名は漢字の草書をくずしたものですが、「女手」といいまして、最初は女の人しか遣わなかったものです。片仮名はお寺の僧侶あたりの発明と言われていまして、日蓮親鸞の文書にも片仮名はずいぶん遣われています。この二つの仮名は明らかに遣い分けられてきました。普通の人が読み書きする文章は、中世からこっち、基本的には漢字平仮名交じりです。庶民がどんどん文字を遣うようになってからは、ますます漢字平仮名交じりが一般的となりまして、片仮名というのは通常、仏典––仏教のテクストや漢文を読み下すために脇に書き添えるくらいのものでした。幕末以降、明治にかけて公的な文書は漢字片仮名交じりで記されることが多かったんですが、これは日本の歴史の中では例外的です。(『組版原論』56頁)

しかしなぜ片仮名が庶民の世界でも生き残って今日に至っているのか。府川氏は民俗学者網野善彦の仮説に言及しつつ、江戸時代の「火付け予告の脅迫状」や春本のオノマトペや昨日紹介した室町末期の『呪詛秘伝書』から愛を成就せんがための「護符」などの例を挙げながらこう推理している。

漢字平仮名交じりの文章というのは、通常の読んだり書いたりする文章だ。つまり平仮名というのは文章語を表し、読み、かつ書く文字である。それに対して片仮名というのは、音声の呪力、マジナイの力、言葉のテンションというようなものに強く結びついている文字なんじゃないか(『組版原論』56頁)

府川氏はこれ以上は立ち入って語っていない。

ここからは私の推理だが、カタカナは「通常の読んだり書いたりする文章」に、一目見てそれと分かるような直接的な「声」を導き入れるための一種の装置なのではないだろうか。

もう少し言えば、カタカナとは文字であることを否定する文字ではないか。

例えば、今日圧倒的に多いカタカナの使用例は外来語の表記であるが、その場合にカタカナは外国語の翻訳に際して固有名等の日本語の語彙に存在しない語をその発音に近づけて表記するのに用いられる。つまり、カタカナは日本語にとっては異質な外部の声を写している。しかも、その結果は、一目見て「それ」を外来語として識別できる視覚的なメリットをももたらす。

こう見てくると、カタカナは日本語の文字世界に空いた「風穴」のように思えてくる。カタカナを通して、あからさまな声や聞き慣れない声が風のように吹き込んでくる。逆にカタカナを通して私はそちらの方に赴くことができる。