カレントとアーカイブの狭間でアンソロジーを夢見る

インターネットがもし夢を見るとしたら、どんな夢をみるだろう、と思うことがある。私がインターネットにどんな夢を描くかというのと微妙に違う。

ネットのあちら側にどんどん蓄積される記録にはカレントとアーカイブがあって、ブログみたいなカレントはさておき、共有材としてのアーカイブで世界標準の勝負をするぞというのが、坂ちゃん(id:keitabando)や金ちゃん(id:simpleA)の一つの立場であるらしい。そのためにブログを日記としてではなく広告としてうまく使う。その割り切り方はよく分かる。もちろん、日記的な要素が全くないわけではない。

私は、と言えば、あちら側のカレントかアーカイブかという問題以前に、ブログのこちら側の「日記性」を重視している。そしてその日記性で賭けられているのは、毎日の身体感覚の表現の可能性とでも言えることで、古い言葉では「実存性」と言ってもいい。古典的主体性と言えるかもしれない。なんだかんだ言って、お前は、ありきたりの価値観じゃなくて、どんな生々しい感覚で日々刻々と生きてんだよ、と。それは「語りの作法」にも還元されない「生きた声」とでもいったらいいだろうか。坂ちゃんや金ちゃんは、訊けば、そういう問いにも明快に応答する言葉を持っている。ブログでは敢えて書かないだけでね。坂ちゃんは時々書いているけどね。

それにしても、言葉は(母語は?)恐ろしい。耳を澄ませば、どんな文章からも書き手の無意識が、意識せざる意図が、意識して語ろうとしている意味の層を突き抜けて、改行の仕方や句読点の使い方などを含めた言葉のつなぎ方から伝わってくる。呼吸、リズム、イントネーションさえ感じられると言えば大げさだろうか。同じ言語を話すということは、見えないところで複雑につながっているということなんだな、とふと思う。目に見えない色んなものを共有してしまっている。隠そうとしたって、見えてくる。恐ろしい。普段はそれに気づかないだけでね。

そんな「生きた声」がノイジーに蠢きもの凄い速度で増殖しつつある混沌としたブログ圏は、分かりやすい形で皆の役に立つアーカイブには馴染まないかもしれないけど、そこに自分なりの秩序をもたらすことで、それが結果的に他の人にも役に立つことがあるのではないか。なくてもいいんだけど。面白いんじゃないか。準アーカイブっていうか、個人的なアンソロジーみたいな感じかな。ライフブックとかライフマガジンとか騒いでいたのにはそんな理由もあったような気がする。

そんな「古い」こと言ってると、真に「無頭の」(バタイユ)技術に、そしてそれを主導する「敵」に、やられちゃうよ、つまりビジネス、経済だけでなく、教育も含めた既存の土俵が、ネットのあちら側に構築されていくアーカイブによって、深いところで静かに着実に後戻り不可能な形で新しい土俵に移行しているんだよ、というのが金ちゃんのひとつの警告だと思っているんだけど、今現在のこちら側での足場によって、そういう移行にどう現実的に関わって行くか、その場合の立場と方向性と力の入れ具合は微妙に変わってくるから、難しいね。

どこにどうやって自分が比較的快適に生きられるテリトリーの境界線を引くか、強く言えば、どこに敵と味方の境界線を引くかということも、岐路でどう態度決定するかということも、とても難しいのが現代であるからして、しかもネットが主な舞台になれば、「日本」なんていう境界は本質的には蒸発しちゃうわけで、でもこちら側の現象としては「日本」は経済活動を含めて根強くおそらく半永久的に機能するだろうから、そこで可能な限り合理的戦略的に振る舞わなければならないということは分からなくはない。だけれど、もっと普遍的な、例えば、土とか水とか空気とか笑顔とか、に寄り添った新しい経済活動(エコノミー)に基づいた世界戦略がありうるんじゃないのかと花咲か爺はついつい呑気に空想してしまうのであった。