グーグルによるパラダイム転換に関する覚え書き

梅田さんが「グーグルの二つ目の顔」という文脈において取り上げている(『ウェブ進化論』でも取り上げていた)「ネットワーク・コンピュータ」のビジョンは確かに魅力的だ。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20070217/p1

この「The network is the computer.」とは、サン・マイクロシステムズが一九八二年創業時から標榜していた、じつに画期的なビジョンなのである。
http://www.shinchosha.co.jp/foresight/web_kikaku/u125.html

この文脈からは外れるが、私は個人的には、インターネットが登場する以前にコンピュータには興味がなかった。触れる機会もほとんどなかった。世代的にも大学生の頃には、コンピュータは大型計算機センターにあるもので、縁がないものだと思っていたほどだった。私のパソコン歴はほぼインターネットの歴史と重なっている。そして、私にとってはインターネットあってのパソコンだった。インターネットに繋がっていないパソコンなら、「紙」と「ペン」のほうがずっとましだと感じていた。しかも、はじめの頃はなんて使い難い「機械」なんだろうと常々感じていた。それはインターネットへの「窓」としてのパソコンの使い勝手の悪さだったのだと思う。ユビキタスウェアラブルな方向へ進化するパソコンの未来形への期待がないわけではないが、実は今でもそう強く感じている。

考えてみれば、情報は孤立していては意味をなさない。つながってはじめてなんぼのものになる。そのつながりが大小の「革命」の相乗効果によってインターネットという規模で真に使い物になる時代がすぐそこまできている(らしい)。そしてそんな情報環境の構築に邁進、猪突猛進しているのがグーグルであるわけだ。もちろん、そんな目立つグーグルにばかり目を奪われていないで、アマゾンが着々と進めているパラダイム転換にも目を向けとかないと後できっと後悔することになるよ、というbookscannerさん(id:bookscanner)の警告にも、もう手遅れかもしれないが、ちゃんと耳を傾けなければならないが。

翻って、日本の言論界をまだ支配するインターネットの負の側面の強調に見られる、「正/負」の見方にとらわれた議論を尻目に、すでにある意味では「勝/負」を決するような動向がもう一段深い土俵で進行しているのだと直観する。近い将来、ネット上で調べられないことはなくなるようになるのは確からしいし、とにかくネットを利用することで、われわれが「あちら側」にどんどん情報を溜め込んでいくことが、われわれが得る利益や蒙る不利益という土俵を超えて、というか、その下で、そういう環境全体がそこに関わる者全員に一体何をもたらすのかという展望が問われているように思う。単純にネットはネット、リアルはリアルと割り切ることでは片付かない問題が増えて行く。

梅田さんはグーグルの野望を「整理されていない情報がこの世に存在することを許さぬ」とレトリカルに表現しているが、その「整理」の内実と真の目的は一体何なのか。内実に関して言えることは、逆に「整理された情報」とは「意味をなす情報」ということで、それは明確な「文脈」を与えられた情報ということだ。あるいはもっと大局的に見るなら、ある「物語」に組み込まれた情報と言えるかもしれない。そうだとすれば、グーグルは究極的にはどんな「物語」を提供しようとしているのかが問題になるだろう。「世界観」と言い替えてもよい。

今のところ、それは狭い意味での「知る」こと、「知り尽くす」ことにしか感じられない。それだけだって大変な価値のあることかもしれないし、大いに役に立つことかもしれない。しかし、「知る」、「知り尽くす」の方向性に何らかの「誤謬」があれば、その先に待っているのは望ましい世界ではないだろう。

「知る」とは単に情報を整理することに尽きることではないはずである。既存の意味や文脈や物語の組み合わせや焼き直しでもないはずだ。もちろん過去には学ぶ必要があり、そのためのアーカイブが誰でもが公平に利用できるような環境作りは望ましい。

私の最近の仕事環境の大半はすでに「あちら側」にある。「あちら側」でできること、「あちら側」でしかできないことに賭けようとしているところさえある。グーグルの恩恵を大いに受けている。しかし、本当に大事なものは「こちら側」にある。つまり容易に「情報化」できないもの、安易にしてはいけないものがある。そして美崎薫さんが常々指摘しているこちら側に貯めているものが「死蔵」されない工夫も必要だ。しかし、私個人にとって仮に「死蔵」で終わったとしても、それは他の誰かにとっては「生かされる」可能性はある。ここには情報にかかわる主体をどう考えるかという問題が控えている。

インターネットの負の側面の故にではなく、正の側面を見据えた上で尚、インターネットをいわば本能的に警戒する気持ちが実は私の中で完全に払拭されてはいない。だから、その負の側面だけを理由にインターネットを忌避する人に対しては、正の側面を強調することになるが、正の側面に立脚して猛スピードで進展している動向に対しては、さらに第三の視点が必要だと思っている。

こうして書いているうちに、それはおそらく「知は力なり」(ベーコン)以来の近代的な情報知の視点ではなく、「驚き」を根幹に据えたデカルトの情念論に遡ることができるかもしれない感情知、ないしは共感知ともいうべき視点であるような気がしてきた。パスカルのいった「幾何学的精神」に対する「繊細の精神」。もちろん、両者は矛盾するものではなく、ただ、後者が軽視されすぎると碌なことはおこらない気はする。