電子化された本は本ではないということ

昨日の拙い覚え書きの一部を引き取って、fuzzyさんが刺激的な考えるヒント、敢えて極論を書いてくれた。
http://d.hatena.ne.jp/fuzzy2/20070218/p4

本や写真やムービーやレポートやメモや日記はあちら側に既にあるし、手元に残す(隠す)だけではもはや意味がない。自動化したプロセスも既にあちら側のもの。
書面化しない状態は手元に残るが、おそらくそのままでは何の価値もない(何らかの書面化が必要だから)。

腰の痛みが和らいだので、大いに異論を述べてみたい(笑)。

「意味」や「価値」は交換や共有(要するに「関係性」)に基づく。しかし交換や共有の可能性は「あちら側」にだけあるのではない。「こちら側」にとどまるものにもローテクの交換や共有の可能性がある。また、「死蔵」と見えるかもしれない「私有」状態においてさえ、時間軸を考慮すれば、過去の私と現在の私との間での「交換」や「共有」の可能性を孕む。しかも、他者の介入による「交換」や「共有」の可能性も排除できない。

例えば、「こちら側」にある本はすでに「交換」、「共有」された結果であり、それらが「あちら側」に移行されることは「交換」や「共有」の中身の変質と頻度や速度の増大を含んだスケールの拡大である。そのような「あちら側」への移行によって得られる意味や価値と「こちら側」にとどまるものたちの意味や価値は共存する。つまり、「あちら側」と「こちら側」とでは「意味」や「価値」の意味や価値が異なる。例えば、bookscannerさんが「マグリット的翻訳」として示唆したようにhttp://d.hatena.ne.jp/bookscanner/20070204/p1、電子化された本はもはや「これは本ではない」のだから。

極論すれば、「あちら側」がなくても私は生きて行けるが、「こちら側」がなければ私は生きて行けない。それこそ意味も価値もなくなると思う。もちろん、「あちら側」は「こちら側」を豊かにするためにこそ必要なのだと思うけど。どうかな?すれ違ってる?