20世紀における神話的視線:羞恥心と名誉



イメージフォーラム・フェスティバル2008の札幌会場の受付で展示されていたイメージフォーラムが過去に企画したイベント関連のカタログやDVD作品が興味深かった。その中で、懐かしいジョナス・メカス監督作品『リトアニアへの旅の追憶』(ダゲレオ出版/イメージフォーラム、1996年)と『マヤ・デレン』(ダゲレオ出版、2000年)のカタログを思わず買った。

休憩時間にぱらぱらと捲っていた『マヤ・デレン』の中で、写真家の港千尋氏の寄稿文「20世紀芸術の記憶」が目にとまった。思わず熟読していた。映画、見ることと見られることの「20世紀における神話的視線」という捉え方に深く頷いている自分がいた。共感した言葉のごく一部分だけ断片的に引用する。

  • カメラは受動的な記録係りではない。
  • 「カメラは単なる観察者であるだけでなくむしろパフォーマンスに対して創造的に参加し責任を負うものである。」映画を撮ることは、まず「見ること」であり、「見ること」は記憶と感情と感覚を結びつけながら、瞬間瞬間に立ち現れる、もうひとりの自分を探究することでなければならない。
  • 「...顔を向かい合わせて、わたしたちはお互いを反射していた。わたしたちは互いに相手の鏡なのだろうか? それともわたしたちは合わせ鏡が無限に反射しつづけるように、鏡のなかでのみ現実を知っている、ひとつの踊る形象なのか。」この特殊な意識の状態を古代ギリシャの人々は<アイドース>という言葉で表現していた。これは羞恥であると同時に名誉でもあるような態度を意味する言葉で、人間が神や英雄を前にしたときの、視線の位相を表している。見る主体と見られる客体が分裂せずに、自分が「見られる」存在であると知り、受け入れて初めて、ものごとを「観る」能力が可能となるような位相である。
  • デレンは、自分の躊躇が見られていることへの羞恥心に発していることをはっきりと理解しながら、それを受け入れることによって、目の前にいるある種の神聖と無限に視線を反射させている。その意味でデレンのカメラが捉えたのは、...遥かに遠い古代にしか存在しなかったと思われていた、神話的な視線の位相なのだ。
  • マヤ・デレンが残した映像を見ることは、20世紀における神話的視線の誕生に立ち会うという、稀有な経験となるのである。