受容


 つい最近、アメリカのある町のデパートで、赤ん坊を抱いて子供服売り場を歩いている若い女性を見かけた。本来、そのことになんの不思議もないはずだが、目を引かれたのは、胸に抱かれた赤ん坊が等身大の裸の人形だったからだ。そして、その女性の背後には、心配そうに見守る年配の男女がついている。
 その光景を見たとき、私はこの「ラースと、その彼女」を思い出した。そして、その若い女性も、ラースのように、もつれた精神の糸を解きほぐすことができればいいのだが、と思ったものだった。

……

   沢木耕太郎「銀の街から:ラースと、その彼女」(朝日新聞朝刊2008年12月9日)

こんな実体験を想起する書き出しではじまる映画「ラースと、その彼女」の紹介文を読んだ。

アメリカ中西部の小さな町が舞台の映画である。「精神を病んだ」若者ラースはラブ・ドールを本当の恋人だと思い込んでいる。そして次々と周囲を巻き込む「異常な行動」に出る。そんな彼に、兄夫婦や会社の同僚たちや教会仲間の老女たちは、自然なことのように「付き添う」。そのお陰で、ラースは次第に「もつれた精神の糸」を解きほぐしてゆき、ラブ・ドールを必要としなくなる……。

沢木耕太郎はこの映画を「ひとつの奇跡の物語」だと評している。

神も聖人も超能力者も出てこないが、私たちは間違いなく奇跡が行われている様を目の当たりにすることになる。そのとき、奇跡を行うのは、人々の「受容」という態度である。否定し、拒絶するのではなく、受け入れる。

これを読んだ時、大学生の頃にひょんなことから知り合った歳上のある女性のことを思い出していた。その頃はまだ純粋な生物学徒だった私はワトソンとクリックの分子生物学の原書の教科書、たしか Molecular Biology なんかを持って、大学そばの Concert Hall というクラシック音楽喫茶に通い詰めていた。今のように堕落していなかった私はクラシック音楽に聴き浸ってもいたからだ。

そんな頃、ある日たまたま隣の席にいた女性がバッハかブラームスの曲に合わせて、テーブルをピアノに見立てて弾く姿が目にとまった。記憶ははっきりしないが、それがきっかけで私の方から話しかけたのだと思う。おそらくクラシック音楽談義に花が咲いたのだろう。彼女はピアニストだった。そして、その後も何度か Concert Hall で彼女と鉢合わせるたびに、音楽以外のことも話すようになって、彼女は大きな失恋を経験した直後だったことを知った。

そしてある日、 Concert Hall で待ち合わせて会うことになったのだが、その時、彼女は赤ん坊を抱いてやってきたのだった。お手製の服を着せた人形だった。本当の赤ん坊のように扱っていた。驚き、戸惑ったことは覚えているが、その時彼女とどんな会話を交わして、どんな風に別れたのたか、なぜかまったく思い出せない。どうしていいか分からなかったのだろう。一応調子を合わせただけだったのだろう。映画のように、心から「付き添う」、心底「受け入れる」ことは到底できなかったに違いない。否定し、拒絶する態度がどこかに出ていたに違いない。今思うと、ちょっと情けない。彼女とはそれっきり会うことはなかった。

その後、彼女はほつれた精神の糸を解きほぐすことはできただろうか。二十歳の頃とは違う、花咲か爺を自称するほどの今の私なら、「受け入れる」ことはできるだろうか。自信はない。