島尾伸三『季節風』を読む2:生まれたばかりの薄暗い世界

島尾伸三は写真のクレジットに決して撮影年月日を記さない。一貫している。写真にそんな「情報」は必要ないと言わんばかりに。少なくとも彼が撮りたい写真は「情報」でもないし、「映像」でさえない、ようである(『季節風』96頁)。

   熱帯植物公園

 シンガポール熱帯植物公園の栽培施設にガラス張りの小屋があり、その中で種子は贅沢なほどたっぷりの光を浴びていました。大きなガラスのチーズ・ディッシュ・カバーかガラスの釣鐘(bell jar)のような器の中で寝ている蘭の種子は貴重なものらしいのですが、それよりもその緑を多く含んだ光線の中で眠る幸せに浸っている種子に神経が吸い取られました。あのように、生きていることを感じながら熟睡する幸せに、ついぞ自分が浸れないのではないか、という寂しさがキュウリに生まれました。もの言わぬ生物が生きている様子には学ぶことも多いのですが、彼の作品はそれをどこまでまねできるのでしょうか。ふつつかな彼が自然をまねて表明する必然なぞかけらもないのだけれども、彼自身を慰めるためにはこれしかないのかもしれません。

 『季節風』68頁〜69頁

島尾伸三は、「フィルムの質感」にこだわるデジタル/アナログ論議にも懐疑的だ(同書98頁)。「粒子の細かさ」は写真の本質には関係ない、と言わんばかりに。『季節風』に収録された写真はすべて敢えて「荒い粒子」でとらえられたかに見えるモノクロームの薄暗い不思議な印象の写真である。では、何が写真の本質なのか。目覚めたままそこに浸り、つかの間「熟睡の幸せ」を夢みさせてくれる「光線」の再現であるということらしい。「フォト・グラフ(光画)」(同書98頁)? 島尾伸三の写真は光が事物の影形を生み出すいわば秘跡に立ち会おうとした実験記録といえるかもしれない。生まれたばかりのまだうっすらと暗い世界の記憶。薄いレースのカーテンや窓を透かして外を撮ろうとすることも、そこに深く関係していそうだ。