島尾家は、まるでサーカス一家のような、あるいは遊牧民のような、異常に引っ越しの多い暮らしだった。島尾家が暮らした主な土地は、神戸、東京都小岩、千葉県佐倉、千葉県国府台、東京池袋、奄美大島の名瀬市四谷、名瀬市小俣、鹿児島県二月町、神奈川県茅ケ崎、鹿児島県加治木、鹿児島市吉野、鹿児島市宇宿町。さらに、父親の急死後、母親と妹は名瀬市内を数回移転したという。
どういうことなのか、いまだにその理由がハッキリとは分からないのですが、数年おきに引っ越しを繰り返した時期もありました。
『東京〜奄美 損なわれた時を求めて』は、母親を許せないという不幸にとりつかれていた「私」が母親を理解してみようとして、家族が暮らした土地を次々と訪ねながら、いったんは封印した過去に遡る約二週間の「旅の記録」として読むこともできる。そんな旅の記録の終わりに近づくにつれ、母親から聞き覚えた奄美大島の「消えていく言葉や歌」への郷愁のトーンが強くなっていく。
【シマウタ】
奄美大島には村と村では通じないくらいに無数の言葉があって、歌も無数に生まれては消えていって、今となっては消えていく言葉や歌ばかりで、お盆の夜に、夏の夜に、どこからともなく、手すさびのようにして鳴らすサンシィン(奄美三味線)とシマウタ(奄美の歌)も消え、宴会場などで聞くのは、わざとらしいまでに磨き上げられたウタシャ(プロの歌手)の歌声ばかりです。いいえ、唄ってやるぞと、練習に夢中の人もいます。同級生の中里君は会う度に上達めざましく、羨ましい限りです。シマを好きになったヤマトッチュ(日本人)にも、上手な人がいたりで、名瀬の繁華街でカラオケ代わりにシマウタを唄っている店もあったりします。私は母の影響で、ヒギャ(古仁屋加計呂麻方面)の歌が、大好きです。それに、1950年代から1980年代にかけて作られた新民謡とか呼ばれていた標準語混じりの新しいシマウタも、唄いやすくて懐かしくて、イタリアン・リアリズムの映画の世界の歌のようで、涙まで出てきてしまうほどです。
同書125頁
しかし、そんな郷愁の思いも、不幸の意識、記憶に巣くう「醜い欲望」、「薄汚れた心」(同書43頁)を消し去ることはなかったようだ。
【違う! 違う!】
楽しいことなど、なかったのでしょうか。悲しみや苦痛は気持ちに深い跡を残し、思いでのすべてが、早く通り過ぎてほしい嫌な時間ばかりだったかのように記憶されてしまったのは、事態を積極的動かすことのできなかった子どもだった頃から、苦痛が永年にわたって蓄積され続けたことで、視野が狭まり、精神の働きがぎこちなくなったからに違いありません。
耳にしたくない言葉や情景の、そのときの暗い空気は、まじまじと再現できるほどに記録されていて、消してしまいたいのに、自分を遠く取り巻く普通の景色がまぶしく、諦めのまじった気持ちが希望を消滅させ、子どもが、私が、外見上はおとなしく見えていても、それは鬱と狂気の支配する不健全な精神環境を抱えていることからだったのです。今も。
暗闇を抱えると、子どもや身近の人が、いいえ、全ての人間や生き物が、楽しそうに、幸せようにしていることが嫌で、自分と同じ暗い気持ちになるようにと呪うこともあるのです。そんなときの私は他人が幸せだったり美しかったりすることが、どこかで許せないのです。
その原因が猜疑心、嫉妬、欲望だとしたら、どうすれば、それらを克服できるのでしょうか。いいえ、愛や美や正義の水面下には、醜い欲望が潜んでいて、ちょっとしたきっかけでたやすく悪意に変質するのです。私は目撃し続けなければなりませんでした。所詮、人が周囲を傷つけないで生きることは無理なのです。ああ、どれもこれも嫌だ嫌だと思うのです。マヤが「違う! 違う!」と言って死んでいったように。
ですから、美しいものや、正しいことを、無条件に良しとする暴力に私は怯えるのです……愛というものにさえ。同書129頁〜130頁
そして「私」は本文の最後をまるで一枚の「ポートレート」のような一文で締めくくる。
【家】
一人っきりなった母は、一羽の小鳥と一匹の犬と庭の草木を相手に生きています。
同書129頁〜130頁