悼む

悼む人

悼む人

毎朝起きるといつものように風太郎の部屋を覗く。ああ、もういないんだった、と自分でも意外なほどあっけらかんと認めることからその日が始まるという朝が続いている。風太郎の部屋の床には彼が時折狂ったように引っ掻いていた爪痕がかなり広範囲に残されている。それをいつかフロッタージュ作品のようにして紙に写し取ろうと心に決めていた。今日、仕事帰りに大型書店の文房具コーナーで大判の厚手の木炭紙を2枚購入した。書籍コーナを通り過ぎてそのまま帰ろうとした時、ふと天童荒太さんの『悼む人』のことを思い出した。単行本のコーナーですぐに見つけ迷わず手に取り、そのままレジに向かった。年が明けてから、RSSによる情報収集に「祈る」、「偲ぶ」、「悼む」等のキーワードを登録していた。しばらくは、全く反応がなかった。ところが、ある時からその『悼む人』に関する記事が多くひっかかるようになった。記事はまともに読む気持ちにはなれなかった。それが直木賞を受賞したニュースも遠い世界の出来事のように聞いていた。でも、「悼む」という言葉に強く惹かれた。天童荒太さんのことは何も知らなかった。彼の小説を読んだ事もなかった。帰宅してから一気に読んだ。何度か涙がこぼれた。色んなことを思い出した。風太郎のことだけでなく、死んだ父母や祖父母や叔父のこと...。そして、風太郎が死ぬ直前から何かに強く促されるようにして書いて来たことの意味について改めて考えさせられた。いつからだろう。子どもを授かってからだろうか。そうだとしたら、20年余り前から、小説からは余程のことがない限り遠ざかっていた。自らに禁じていた。小説なんぞ読む暇があったら、目の前の現実を少しでも咀嚼しろ。そこから自分の言葉を立ち上げろ。そんな声に従って来たからだろう。それが、何の因縁か「悼む」という言葉のつながりで、小説『悼む人』を読むことになった。天童荒太さん自身が「悼む人」なのだと思った。読み終えて、『悼む人』を風太郎の霊前に供えた。