悼む人々


イザベラ・バードの日本奥地紀行 (平凡社ライブラリー)

今から130年前の1878年明治11年)に英国人女性イザベラ・バードが日本列島を旅した。彼女が歩いて、見て、聞いて、記録した「日本」を、それから約100年後の今から約30年前に宮本常一が解説した。その「日本」は、私にとってほとんど見知らぬ国である。時代が時代なんだから、当たり前だ、と思う一方で、それにしても、その間の変化はあまりにも急激で、それによって得られたものの陰で失われたものの大きさを思うと非常に複雑な気持ちになる。

 「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社ライブラリー 133頁

例えば、この挿絵に描かれたものは一体何だろう? これは、イザベラ・バードが「これほど哀れにも心を打つものを見たことがない」と記録し、宮本常一が「とにかく通りかかった人たちの慈悲によって一つの霊が浮かばれるようにという行事なのです。このような一種の連帯感が日本人の中にあって、それがわれわれを支えていることが大きかったのではないか」と解説する「流し祈願」あるいは「流れ灌頂(かんじょう)」である。今日、盆の大きな行事として知られる各種の送り火、とりわけ精霊流し、あるいは灯籠流しとの関係が気になるところでもある。

イザベラ・バードの記録はこうである。

越後の国のいたるところで私は、静かな川のちょうど上に、木綿布の四隅を四本の竹の棒で吊ったものを見かけた。ふつうその背後には、長くて幅の狭い木札があり、木札の上部には、墓地で見るものと同じような文字が刻みこまれている。ときには、竹の棒の上部の凹みに花束が挿してあり、ふつう布そのものの上にも文字が書いてある。布の中には、いつも木製の柄杓(ひしゃく)が置いてある。(中略)たまたま、坊さんが道傍にあるそれらの一つに柄杓いっぱいの水を注いでいた。布はゆっくりと水浸しとなった。(中略)彼の話によると、その木札には一人の女の戒名すなわち死後の名前が書いてある。(中略)布に水を注ぐのは祈願であり、(中略)これは「流れ灌頂(かんじょう)」といわれるもので、私はこれほど哀れにも心を打つものを見たことがない。これは、初めて母となる喜びを知ったときにこの世を去った女が、前世の悪業のために血の池という地獄の一つで苦しむことを(と一般に人々は信じているが)示しているという。そして傍を通りかかる人に、苦しんでいる女の苦しみを少しでも和らげてくれるよう訴えている。なぜなら、その布が破れて水が直接こぼれ落ちるようになるまで、彼女はその池の中に留まらなければならないのである。

 『日本奥地紀行』高梨健吉訳 東洋文庫 第十八信

これに関する宮本常一の解説はこうである。

この流れ灌頂というのは、今でも歩いていると見かけることがあるのですが、ここにあるように、女の人が出産して、あるいは妊娠中に死ぬということが昔は多かったようです。これほど女にとって不幸なことはない、つまり子どもによって命を失ったことになる。その人たちは、なかなか極楽へ行けないので、そのために多くの人たちの供養を受けなければならない。それで供養のことば(南無阿弥陀仏と書いてある場合もある)をとなえてもらい、水をかけてもらう(千べんかけると良いといわれている)のです。
 イザベラ・バードが見たのは新潟県の北の方の山の中なのですが、今でも日本各地に、こういう風景が見かけられるのです。とにかく通りかかった人たちの慈悲によって一つの霊が浮かばれるようにという行事なのです。このような一種の連帯感が日本人の中にあって、それがわれわれを支えていることが大きかったのではないか。

 「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」平凡社ライブラリー 133頁〜135頁

宮本がこれを語ったのは1976年、30年ほど前のことだが、現在でもこういう風習が残っている土地はあるのだろうか。それともこの30年の間にあとかたもなく消えたのだろうか。いずれにしても、かつての日本人はごく普通に「悼む人々」だったのだと感心した。

ちなみに、天童荒太が創造した「悼む人」はたまたま遺された者として、多数の死者の生前の記憶を胸に刻むという意味での「悼む」人だったが、仏教的な死後のビジョンが濃厚な「流れ灌頂」のような祈願もまた、結局は遺された者たちが不条理な死を時間をかけて受けいれることによって、死をもとりこんだ生の奥深い認識を示しているのだと感じる。


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