アメ車その2:Pontiac Le Mans 1992 SE と自動車修理屋の思い出

アメリカにいたときは基本的にチャリンコ生活でしたが、一台のアメ車をただ同然で譲り受けました。名前はPontiac Le Mans 1992 SE。メーカーはあのGM。上の写真の一番手前に写っているやつです。ちなみに、私はアメリカ人の習慣に逆らっていつも必ずバックで駐車していました。幾多の葛藤の末に、夏休み中にカリフォルニア州の運転免許も取得しました。その顛末は以前書きました。そこに、私のポンティアックは何箇所も修理が必要な廃車寸前の状態であったことも記録されています。その部分だけ再度引用します。

  • Pontiac Le Mans 1992 SE

実は今住んでいるアパートを家財道具一式引き継いだ際に、そこに自動車も含まれていました。自動車保険だけは以前報告したように日本にいる間に手続きは済ませ、こちらに来てすぐに半年分の保険料、約380ドルを支払いました。車種はPontiac Le Mans 1992 SE。名前だけ聞けば、よさそうなイメージが浮かぶかもしれません。赤のスポーツカータイプとも知らされていた僕は少し期待もしていましたが、実際には前住人がその処分を僕に預けたとしか思えないようなかなりガタのきた車でした。側面は両側ともへこみ、塗料がはげ、ブレーキは大きな軋み音を立て、ハンドルを左に切ると車体前方が振動音を発し、パネル系統の照明が接触不良で時々消える、という状態でした。修理費にいくらかかるかわからない、これはうまく処分したほうがいいな、と何度も思いました。しかし運転の練習をしているうちに、と言ってもアパートの敷地内のドライブの往復ですが、だんだんその車に愛着が湧いてきました。

 (3年前のカリフォルニア州運転免許取得の顛末を思い出した(2007年08月23日)より)

しかしながら、ポンティアックに対して手放すには忍びない愛着の情が深まり、かつ、運転免許も取ったとはいえ、特にブレーキ周りのトラブルの不安は拭えず、結局大出費を覚悟で修理に出すことにしました。そしてその際にも多くの葛藤や戸惑いを味わいました。そのマヌケでドジなお恥ずかしい顛末の記録があります。ちょっと長いですが、誰かの役に立つこともあるかもしれませんから引用します。よっぽど暇な時にでもお読み下さい。

自動車修理屋


運転免許取得後しばらくの間ポンティアックを運転していなかった僕は9月16日、清水の舞台をとびおりる気持ちで自動車修理屋に運転して行きました。

実は僕にとっては車の登録や運転免許取得以上に修理屋に行くことの方が心理的には高いハードルでした。数人の知り合いの実体験話や噂話を総合すると、アメリカの修理屋ではいくらボラれるかわからないから気をつけた方がいいという、実際には何をどう気をつければいいのかよくわからないような話でした。でも僕も一番気がかりだったのは修理代金でした。DMV*1とは違って、修理代は見当がつきませんでした。しかも僕の英会話力では足下を見られていくらふっかけられるか分からないのが不安でした。最低限修理が必要なブレーキに関しては、広告等を見る限り、安くて85ドル、しかもよく見るとそれは車輪1本あたりの代金で、4本では単純計算で345ドルでした。しかもパーツ代金は別に違いないから、少なく見積もっても500ドルはかかりそうでした。それにやっぱり左旋回時の車体前方の振動も無視できませんでした。推測してもきりがないので、新聞広告で目をつけていた2件の修理屋を実際に覗いてみたのですが、どちらもやる気のなさそうなメカニックと極めて態度も人相も悪いオーナーでした。僕はこれはボラれそうだと感じて、とても修理を頼む気にはなれませんでした。仕方なく研究所の職員ミシェルに相談すると、エル・カミノ・レアル沿いにあるプラネット・オート Planet Auto Repair を薦めてくれました。そこのオーナーのアレックスに頼むといい、私の推薦だと言えばよくしてくれるはずだと言われました。場所は僕の住むパロ・パロアルトの隣町メンロー・パークでした。しかし何度か通りすがりに瞥見したその修理屋はいつも混んでいて、しかも従業員たちは皆怖そうな雰囲気の人たちばかりでした。臆病な僕は躊躇しました。

しかし覚悟を決めた僕は16日の午前10時頃プラネット・オートのまだ少し空きのあった正面スペースに乗り付け、明らかにメカニックではない、オーナーらしい男に声をかけました。マヌケな事に、その時になって僕は突然、ああ、予約が必要だよなと気がつきました。その男はやはりアレックスでした。修理を頼みたいと言うと、その赤いポンティアックか?イエス。予約が必要ですか?そうだ。今日は無理だ。明日の午前中ではどうだ?分かりました。何時にする? 10時? 9時はどうですか?いいよ。じゃ、9時に。僕が調べた限りでは、修理屋はどこも朝8時から夕方5、6時までやっています。週末は、土曜日もやっている修理屋が多い中、プラネット・オートだけは土曜日はきっちりお休みでした。

翌朝9時に車を持ち込んだ僕はポンティアックの2つの症状、ブレーキ・ノイズとレフトターン・ノイズを説明し、修理代はいくらくらいかかりそうか聞きました。先ず見てみなければ何とも言えない。見積もりにはハーフ・アンナワーかかるがどうするか、ここで待つか帰るか聞き返されました。一旦帰ってからまた来ます、と答えてから僕は徒歩でアパートを往復するのは面倒になり、その修理屋のすぐ近くにある馴染みのスーパー、SAFEWAY で時間を潰すことにしました。朝食がまだだったので、ベーグル2個とコーヒーを買い、駐車場脇のベンチで食べました。実に情けないことに、修理屋のアレックスが見積もりにはハーフ・アンナワかかると言ったときに、僕は何故か1時間半と思い込んだのでした。見積もりにそんなに時間がかかるのかと思いながらも、SAFEWAY で時間を潰せばいいと思ったのでした。ところが、ベーグルを食べ終わり、一息ついた瞬間に、待てよ、ハーフ・アンナワ?もしかして30分か? 30分じゃないか!と独り言を言っていたのでした。ちょうど30分たった頃だったので、僕はプラネット・オートに向かいました。

オフィスに入り、どう?と聞いた僕に、アレックスはやや申し訳なさそうな表情で、修理が必要な箇所について詳しく説明してくれて、合計730ドルだ、と言いました。予想外に高かったので、僕は、え?と困った表情を浮かべてから、しばらく難しい顔をして考え込みました。ブレーキの修理だけだといくら?と聞くと、540ドルという答えが返ってきました。でも、左旋回時の振動は無視できないよな、と思った僕は、じゃ見積もり通り頼みます、と言って伝票にサインしたのでした。修理には3、4時間かかるということでした。へー、そんなに短時間で出来るんだ。どんな修理なんだ?とちょっと不安にはなりましたが、ここはもう頼むしかないという心境でした。修理が終わったら電話連絡してもらう約束をしました。アレックスはどうやって帰るか聞いてきました。車でおくろうか?と言ってくれました。イエス。するとアレックスは突然大声で誰かスタッフに声を掛けました。僕がありがとうと言ってオフィスの外に出ると、小柄な老人が僕に目配せしてちょっと離れた場所に路上駐車してあった巨大な黒塗りのキャデラックまで先導してくれました。なんと乗り心地のいいことか。僕はマイ・ポンティアックとの違いに愕然としました。彼はとても気さくで明るいヒスパニック系の老人で、道中色々と世間話をしながら、オーク・クリーク・アパートメンツまで送り届けてくれました。彼はプラネット・オートで12年働いているそうでした。

修理依頼後5時間以上たっても電話が入らなかったので、こちらから電話すると、もう修理は終わったと言われました。(何だよ。連絡よこせよな)。じゃ、これからすぐ行きます、と言うと、ノー・プロブレムという言葉が返ってきました。バイクで行けば楽でしたが、僕のポンティアックには積めないので、徒歩で30分かけて、プラネット・オートに行きました。暑い日で、汗をかきました。オフィスに入り、カウンターの向こうでうつむいているアレックスに、ノイズはどう?と声をかけると、俺の耳には聞こえないよ。と論理的な言葉が返ってきました。そして請求書を見せてくれながら、修理内容について説明してくれて、540ドル、と言いました。えっ? 730ドルじゃないの? ノー。ハンドルを切ったときのノイズの原因はアクセル・ペダルで、それは簡単な修理で済んだので、代金は要らないよ。本当?イエス。どうもありがとう。僕はその良心的な対応にちょっと感動していました。支払いはカードでいい? 何でもオーケーだよ。ちょっと無愛想な男でしたが、自分の仕事に誇りをもっているのが感じられる、信頼できそうな奴でした。

そういうわけで、ほぼ1ヶ月分の生活費が飛んでいきましたが、僕のポンティアックは最低限の安全性を確保したのでした。

 (『カリフォルニア通信17』*2より)

そのポンティアックは、帰国直前に、アパートの隣人メラニーの友人ジェニアが「キュートね」と気に入ってくれて、彼女に譲ることになったのでした。

*1:DMVは Department of Motor Vehicles の略称で、日本の陸運局に相当します。詳細については、http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20070823/1187885102を参照してください。

*2:これは滞米中に日本の知り合いに向けてメール配信していた非常識に長い滞在記。誰もまともに読まなかったと伝えられる。