日本列島の素顔はゴミ列島

日本のゴミ―豊かさの中でモノたちは (ちくま文庫)

日本のゴミ―豊かさの中でモノたちは (ちくま文庫)

一昔以上前に書かれた本書を読んで、戦慄した。自分が生まれ育ち、現在も所属するこの国の虚飾を剥いだ掛け値無しの姿を知るには、日々大量に生産され、複雑に流通し、大量に消費されるモノたちの行く末を直視することだと再認識した。要するに、廃棄物、いわゆる「ゴミ」問題。ただし、恐るべき事に、この国では動物(ペット等)の死体も法的には清掃局による「ゴミ」扱いである(353頁)。普段、見て見ぬふりをしているこの国の廃棄物(ゴミ)処理の実態は、モノや動物にとどまらない、人間をも平気で使い捨て、切り捨てる、どんなホラーフィクションをも凌駕する国家的絶望的倒錯的状況と連動している。本書の第四章「紙の終わり」を読んでいる合間に、たまたまつけたテレビのチャンネルでやっていた放送大学の講義では「紙の文化学」が語られていた。そのいかにも「教養主義的」な語りはどこの世界の話だろうと思うほど空虚に響いた。というのは、毎日どれほど大量の紙がゴミとして処分されているかということこそが、現代の紙の「文化」の看過できないバロメーターであると痛感した矢先だったからである。

 マルクスは、生産、流通、消費に至る社会経済活動の”動脈”を鋭利に分析した。しかし、それ以降の廃棄、そして再生産という”静脈”の社会経済活動過程は看過された。(407頁〜408頁)

マルクス以降の経済学では、消費以降の廃棄、一部再生のプロセス、つまりはゴミをめぐる社会経済活動の過程をどう分析したのだろうか。寡聞にして知らない。現状では、あらゆる商品は、ごく一部が「再生」されるにとどまり、大半は”ゴミ”としての末路を歩む。今や水はもちろん、近い将来には空気さえ。