噂が伝説になる時

宮本常一は若い頃に肺結核で二度死線を彷徨った体験をもち、生存にぎりぎりの肺活量しかなかったと言われるも、日本列島の津々浦々を何かに憑かれたようにひたすら歩き続けた稀有な旅人、前代未聞の記録者だった。1930(昭和5)年、23歳の時、最初の病に倒れ、郷里で1年以上の絶対安静の療養中には、ひたすら『万葉集』を読み、それが後の旅に大変役立ったと語り、こう続ける。

ほんとうの旅は万葉人の心を持つことによって得られるものではないかと思うようになった。(『民俗学の旅』80頁)

病が癒えて、医者に外出を許されてからは、ふところに手帳を入れて人の集まるところへいっては話を聞き、それを書き留めたり、野山をあそびまわるようになったという。そんな頃の興味深いエピソードがある。

 病気がよくなると野や山をあそびまわった。草の中に寝ころんで空を流れる白雲を見たり、沖の島の上で夕日を長いあいだ見ていたり、浜へ出て海へ石を投げていたりするのを見た村人たちは私が気がくるったのではないかと思ったらしい。村の中にそういうことをする者はいなかったのである。そして私が気が変になったという噂が村中にひろまり、小学校の子供たちは私を見ると逃げ、石などを投げるようになった。弁明しても仕方ないので時の流れていくにまかせることにした。ある日おなじように野の道を歩いていて、大便がしたくなったので、今本という丘の松林の中へいって用を達した。松の木の下に小さい瓦の祠があった。それから間もなく村の中に私が病気の回復を祈るために今本の稲荷様に参っているという噂が流れはじめた。
 昭和7年3月、健康も一通り回復したので師範学校時代の先生にすすめられて上阪し、大阪泉北郡池田小学校へ代用教員として勤めることになった。ところが郷里の方では稲荷様に祈願して病気がよくなるという噂がひろまり、その稲荷様はにわかに大流行することになった。私は伝説などの根源をそこに見るような思いがした。(同書82頁)

これは村人から迫害に近い冷遇を受けながらも、「時の流れていくにまかせることにした」と淡々と語る宮本常一が、生身の自分をどこか高見から見物しているようなペーソスとユーモアの感覚が入り交じったような「眼」を感じさせるエピソードである。そんな眼が、人々が「噂」によっていかに動くかという、複雑な人間社会の成立を冷静に見通すためのひとつの重要な視点の発見にも繋がって行く。

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さて、風太郎がいなくなってからも、以前と同じように、毎朝きょろきょろして写真を撮りながらひとりで散歩を続ける私を町内の人たちがどう見ているかは知らない。藻岩神社にお参りする姿から何を想像されているかも分からない。もしかしたら、今まで一緒に歩いていた飼い犬を失った悲しみから立ち直れずに、毎朝お参りしている哀れな爺がいると噂になっているかもしれない。そしてその噂からはそのうち、藻岩神社にお参りすれば、ペットに死なれた悲しみ、喪失感はきれいに癒されるという「伝説」が誕生するかもしれない...。まあ、どうでもいいことだが。もちろん、このブログを通してだって、どんな噂がどう広まっているか知れたものではない。それもまたどうでもいいことだが。