神には物を頼むものではない:心のカーボン・オフセット

宮本常一は自分にとって父親は生きていくための「方向」を決めさせてしまった大きな存在であり、「もっとも尊敬する人物の一人」であると書いた(『民俗学の旅』27頁)。宮本が15歳で郷里を離れるときに父親から言い伝えられた「10か条の教え」はあまりにも有名である。

(1)汽車に乗ったら窓から外を歩く人をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。駅へついたら人の乗りおりに注意せよ。そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかがよくわかる。
(2)村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上がってみよ。そして方向を知り、目立つものを見よ。峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。高いところでよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。
(3)金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
(4)時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。
(5)金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
(6)私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。
(7)ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。
(8)これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
(9)自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって、親は責めはしない。
(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

 (『民俗学の旅』36頁〜37頁)


しかし、宮本が父親から受け継いだそれら以上に興味深い教訓がある。

宮本の父親は貧乏のどん底にあった若い頃にオーストラリアのフィジー島の甘藷栽培の人夫募集に応募した。明治27(1894)年のことで、当時宮本の郷里周防の人びとはハワイへの出稼ぎに多くの人が出かけており、その数も三千人を超えていたという。そういう風潮に押されて、宮本の父親は海外渡航を志した。ところが、日清戦争勃発や風土病など不運なことが重なり、結局一年もたたないうちに引き揚げてきた。しかも、フィジーから帰る途中台風にあって船が沈没しかけたという。その時の体験から得た神に関する教訓の話が非常に興味深い。

 またフィジーから帰る途中台風にあって船が沈みそうになったとき、人びとは金比羅様に祈願して、もし生きて帰ることができたらはだし参りをしますからと誓ったのであるが、船が神戸につくと仲間の者はそれぞれ郷里へ帰ってしまった。しかし父は神への約束をはたすために船で神戸から多度津(たどつ)へわたり、衰弱しきっているので人力車で琴平(ことひら)までいって琴平宮の石段の下でおろしてもらい、高い石段を這ってのぼっていったという。それほど苦しかったことはなかったと私に時おり話してくれたが、それでも不思議に生きつづけることができた。神に頼むということは、同時にそれほどの義務を負うことになる。だから神には物を頼むものではない。できるだけ自分の力にたよるべきであるというのが父の信念であった。だから神社や寺のまえを通るときには頭をさげたが、神に祈願することは生涯しなかった。

 (『民俗学の旅』29頁〜30頁)

これを読んで、自分でも驚いたが、毎年全国で唱えられ、書かれる膨大な神頼みの言葉のエネルギーが、まるで二酸化炭素のごとく大気中に排出されているようなイメージが浮んだ。それをきちんと「カーボン・オフセット(二酸化炭素相殺)」するか、できないならはじめから排出しないかのいずれかの態度を選択しなけらばならないという命題さえ浮んだ。宮本の父親のいう「義務」という言葉は、私の中で、心のエコ活動の原則のように感じられた。大げさかな。