ここ数日切り抜いていた新聞記事の中で妙に印象に残った記事があった。
作家の辻原登が「ペテロのつまずき」を題材にしたチェーホフの短篇『大学生』のあらすじと最高潮の場面を紹介し、「僅か数ページの物語の中に何という深い時間と広大な世界が凝縮されていることか」と絶賛している。そして大長編作家のトルストイがチェーホフの短篇をこよなく愛したというエピソードを紹介しながら、長編と短篇は、個別の作家を超えて相互に依拠し合う関係にあると主張している。明示されていないが、おそらく「小説世界」におけるひとつの真実なのであろうと推察する。そして「短篇の衰退」と言われる現状をとりあげ、それは実は「長編の衰退」と表裏をなす現象であると指摘し、その原因について次のように書いている。
その理由(わけ)は……我々がみな手書きを捨てたからだ。脳中枢と末梢神経との優美で、深い共同作業から遠ざけられている。
永遠という考えは、長い時間をかけた手仕事の世界から生まれる、と書いた先哲がいた。
結局のところ、辻原登は「我々」は手書きを復活すべきである、と主張したいのだろうと推察する。もしそうであるならば、他人はどうあれ、辻原氏自身が手書きに徹すればいい話だと思う。ただし、コンピュータを使って「書く」ようになった誰しもが抱く潜在的な不安の根源に辻原氏は触れているのだとも思う。
今これを書いている瞬間にも、両手の10本の指はキーボード上を踊っている。同時に両眼は液晶ディスプレーに映し出されたデスクトップ様式のOS上の紙に見せかけたウィンドウの中に出現する文字列を眺めている。手書きに比べて、頭と手が乖離したような感覚を抱く。また頭と手の関係がやせ細る、頭自身、手自身もやせ細るような感覚を抱く。もどかしい。それに慣れることは、コンピュータという不出来な機械の奴隷になるようなものだと思う。面白いことに、ほとんどコンピュータの奴隷と化した今でも、肝腎のアイデアを練るときなどには、必ず紙と鉛筆を使う。
しかし、もっと原理的に考えるならば、紙と鉛筆にしてからが、すでに頭と身体を乖離させる余計な道具だと言えるだろう。身体以外の道具を使って現実を再現しようとしたり、何かを表現しようとしたり、記録しはじめたときから、人間は「脳中枢と末梢神経との優美で、深い共同作業から遠ざけられている」と言えるのではないだろうか。