道北への一泊二日の小さな旅を終えた。残念ながら、ほのかな期待は裏切られた。二日間晴天に恵まれたものの、納沙布岬からも宗谷岬からも水平線上の雲に遮られて、宗谷海峡の向こう側に樺太(サハリン)の島影を見ることはできなかった。話をした地元の人たちからは、空気の澄む秋に来れば、きっと見られるよ、と教えられた。
しかし、諦めきれなかった私は、行く先々で北を凝視した。水平線上の雲の向こう側にサハリンが存在するはずの辺りに何度も目を凝らした。宮本常一に倣って、市内の一番高い場所にも登った。そして、氷雪の門で知られる高台の稚内公園から宗谷海峡を眺めているときだった。人工物と思しき柱状の細い物体が雲の上に何本も立っているのが微かに見えた。もしや樺太の煙突群か、とぬか喜びした。すぐにそれは蜃気楼だと分かった。ズーム撮影した写真をよく見ると、不思議なことに、雲の上にこちら側の風力発電用の風車群が映っていた。少し嬉しかった。
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- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1997/01/01
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夜、稚内市内のホテルで司馬遼太郎の『オホーツク街道』を少し読んだ。そのなかで、国際水路機関が定める宗谷海峡の国際名称は La Pérouse Strait(ラ・ペルーズ海峡)であることを初めて知った。たしかに、「日本の領海にフランス名があるというのは奇妙というほかない」(253頁)。その背景と理由はこういうことらしい。
ラ・ペルーズが宗谷海峡を通ったのは、日本の天明7年(1787)、11代将軍家斉の治世のはじめのことであった。
かれは、国王ルイ16世の命をうけてアジアの東北の海を探検した。この航海家(1741〜88)は、樺太の間宮海峡の最狭部に入り、転じて南下してこの宗谷海峡を通ったのである。
”発見”したこの海峡にみずからの名を与えた。公認の手続きがとられたから、いまでも海図などでは、ラ・ペルーズ海峡である。当時の日本は鎖国をしていたために、欧州人に探検されたり、発見されたりするだけの存在だった。
(253頁〜254頁)
なるほど、植民地主義や鎖国にまつわる歴史的事実が、「ラ・ペルーズ海峡」という名にいわば記憶されているわけだ。いろいろと連想が広がる話でもある。