Home of the Brave



Home of the Brave


第二次世界大戦中、合衆国では十二万人以上の日系アメリカ人が西部の六州の十の収容所に抑留された。この絵本は、当時ある収容所で撮られた二人の少女の写真に触発されてアレン・セイが創作したものである。彼は本書のあとがきで、合衆国における露骨な日系アメリカ人差別に関する事実とそれを実証する数字は馴染み深いものであるとしながらも、こう述べる。

しかし今や統計は人間の顔と声を獲得した。私は事実と数字を見つめそれらに耳を傾けた。そして私が見たもの聞いたものは、ひとつの個人的な旅に翻訳された。これはその物語である。(p.32)


物語じたいが夢のようなものかもしれないが、この絵本で綴られる物語の中では夢が入れ子状になっていて、いくつかの夢から醒めるという構成によって現実の多層性とでもいうべき性格が暗示されている。そして物語はまだ醒め切らぬ夢のモードで終わる。見事な構成である。

男が夢の中で出会った収容所から逃げ出したらしい二人の少女、そして収容所にいる大勢の子供たちが彼に強く訴えかけるように歌う「家に連れて帰って!(Take us home!)」 という言葉が極めて印象的である。しかも彼等は皆「名札(Nametags)」を付けている。匿名ではないことが示唆される。彼は収容所の一軒の家の中で自分の名前が書かれた名札を発見して衝撃を受ける。そして母の名前が書かれた名札まで発見する。さらに彼は母は祖父と同じ名を自分につけたことを思い出す。「最後の夢」の中で彼は収容所にいた大勢の子供たちの名札が紙吹雪のように風に舞う中に、自分=祖父の名と母の名が書かれた名札を放つ。そうして一緒になった名札の雲(the cloud of nametags)は突然鳥の大群に姿を変え山の向こうに消える。「彼らは家に帰った(they went home)」というところで物語は終わる。

「家(home)」という言葉が何重もの意味を伴って響く物語である。この絵本の意味深長なタイトルは、収容所を「家=故郷」と思いさだめて生きた「勇気ある」日系アメリカ人を讃えたものにほかならないと思った。


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五年前の今頃、私は知人と西シエラを旅した。その旅の三日目に、第二次大戦中に約一万人の日系アメリカ人が強制連行されたマンザナの収容所の跡に出来たばかりの博物館を訪ねた。Home of the Braveを読みながら、マンザナのことを思い出した。その時の記録を読み返していた。


ホテルに到着した僕らをおばあさんと孫娘がカウンターの中で迎えてくれました。そのおばあさんはゆっくりととても丁寧に丸みを帯びた発音をする人でした。カウンターには雑然と色んなパンフレットや絵はがきが置かれていて、多少埃もかぶっていました、その中に先住民諸部族の説明パンフレットみたいなものがあり、チェックインの手続きが終わり部屋の鍵を受け取った後に、僕はそのパンフレットをいただけないか、おばあさんに尋ねましたが、それは売り物ではないので、差し上げられないが、隣町のローン・パインにあるインディアン・ショップに同じ物が売っていると教えてくれました。僕はそのおばあさんに興味を覚え、先住民の末裔に違いないと直観したからなんですが、自分が先住民の文化や伝統にとても興味があることや、日本から来たことなどを話したのでした。



ホテルのあるインディペンダンスはとても小さな町で、レストランは一軒しかないとのことでした。しかも最低でも20ドルはとられそうだったので、スーパーでソーセージやサラダなどを買い出しして、その日の夜は屋外のパティオでシエラの山並みを染める夕日を眺めながらワインを傾け、料理は質素でしたが、豪華な気分でディナーすることができました。10時すぎには屋内のラウンジに入り、雑誌や新聞が雑然と積み重なっておかれている古びた応接セットで、ビールを飲みなおしながら話しました。するとおばあさんがやって来て、僕にぶ厚い本を2冊手渡してくれました。インディアンの諸部族に関する本と3日目に立ち寄る計画の第二次大戦中カリフォルニアの日系人1万人が収容されたキャンプ跡のあるマンザナに関する本でした。宿泊している間貸してくれることになりました。僕は丁寧にお礼を言いました。僕らは交互にその図版と表の多い2冊の本を読み、色々と感想を述べ合ったのでした。







ローン・パイン湖からの帰途、ローン・パインとインディペンダンスの中間にあるマンザナの日系人収容所跡にこの4月にオープンしたばかりの博物館を訪ねました。かなりしっかりとした展示がなされ、まるで日本のどこかの村でもあるかのような当時の収容所生活を綴った短編フィルムも上映されていて、僕は驚きつつも少々複雑な心境になったのでした。僕ら以外は白人の観光客でしたが、皆さん熱心に展示を見ているようでした。ちょっとひっかかったのは、当時のアメリカ政府が日本人をここに収容した理由をパールハーバーに帰したことを表現するポスターに9.11の煙を上げるツインタワーの写真が併置されていたことでした。

 (「カリフォルニア通信13:シエラ小紀行」2004年6月2日より)


その旅では、インディペンダンスという小さな町に1927年に開業したウィネドゥマ・ホテル(Winnedumah Hotel)というインディアン名の由緒ある、ただしかなり寂れたホテルを拠点にして、広範囲に動いた。古くてあったか〜い空気に包まれたウィネドゥマ・ホテルを懐かしく思い出す。そこに残してきたルビー(Rubby)が描いてくれた肖像画はまだあるだろうか。マンザナとともに、また、訪ねてみたい。


 「ウィネドゥマ・ホテルのスケッチブック」(2006年10月22日)


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Home of the Brave抄訳

深い渓谷の底を流れる川でカヤックに乗った男は滝を転落します。

気付いたら着の身着のまま地下の川を流されています。微かな明かりを感じた先に洞窟があり、そこには地上の穴から光が差し込み、梯子がかけられています。地上は砂漠でした。廃屋の前に名札(Nametag)をつけた二人の少女がうずくまっています。道に迷ったらしい彼女たちは家(Home)に帰るところで、収容所(Camp)から来たと言います。男は彼女たちの手を引いて町を目指して歩き始めます。まもなく砂嵐に視界を遮られ、難儀しますが、そのうち町の明かりが見えてきます。しかし、そこにあったのは、表紙絵にあるように、まったく人気のない、同じ造りの木造タール塗りの家が整然と並ぶ場所、つまり収容所でした。

男はある家の中で自分の名前が書かれた名札が落ちているのを発見して驚きのあまりしばし呆然とします。物音にびっくりして、外に飛び出すと、そこには大勢の子供たちが黙ったまま彼を見つめています。そして「家に連れて帰って!(Take us home!)」 と歌い始めました。すると「中に戻れ!」という大きな声が響き渡ります。子供たちの背後の暗い空に二つの監視塔がぼんやりと浮びあがります。もう一度「中に戻れ!」という拡声器の声がとどろくと、子供たちは走り出しました。二本の光線は、剣のように、子供たちを斬りつけます。男が「灯を消せ! 灯を消せ!」と監視塔に向かって叫ぶと、探照灯は彼に向けられます。目がくらんだ彼はよろめきながら子供たちの走る音を追いかけます。

目が見えるようになると、子供たちの姿はもうありませんでした。目の前には古代ローマの闘技場のような円形の囲いがあります。その中に穴があり、梯子がかけられています。穴のそばに名札が落ちています。女の子の名前が書かれています。彼の母の名前と同じです。彼は思い出します。自分の名前は祖父の名前と同じで、それは母がつけてくれたことを。彼は祖父と同じ自分の名前が書かれた名札と母と同じ名前が書かれた名札をポケットに入れます。穴の中から子供たちの声が聞こえた気がして彼は梯子を降ります。穴の底は真っ暗闇です。声をかけても応答はありません。大きな疲労感が彼を襲います。彼は横になって眠ります。

ひそひそ話をする声に目を覚ました彼は、川のそばにいます。子供たちが土手に打ち上げられたボートのそばに立っています。彼はそれが自分のカヤックであることに気付いてハッとします。「走っちゃだめだよ」と彼が声をかけると、子供たちは振り向いて彼を見つめます。その子供たちはあの子供たちではありませんでした。「ここはどこかな?」彼は尋ねます。「収容所(Camp)だよ」と1人の子が答えます。「まさか!」と彼は叫びます。彼は起き上がり、地面に沢山の紙切れ(名札)が散乱しているのを見ます。彼は土手を駆け上がります。

突風が名札を空中にまき散らします。男はポケットのなかから二つの名札を取り出して、空中に放ちます。一緒になった名札の雲(the cloud of nametags)は突然、鳥の大群に姿を変えます。男と子供たちは鳥の大群が山の向こうに消えるまで見送ります。「家に帰ったね」と1人の子が言います。「そう、家に帰った」と男は言います。子供たちは頷きます。