末期の眼


吉田喜重


1993年12月13日〜16日にかけて、4夜連続でNHK教育テレビで放映された「ETV特集 吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界」の第4回「その短すぎた晩年/無秩序な世界につつまれて」を学生たちと一緒に観る。全4回の各テーマは次の通りである。

第1回「サイレントからトーキーへ 映画との出会い 反復とずれ」
第2回「戦中戦後の軌跡/映画が言葉を発するとき」
第3回「『晩春』と『東京物語』/限りなく開かれた映像」
第4回「その短すぎた晩年/無秩序な世界につつまれて」


この番組は後にDVD化され、ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントから発売された。


吉田喜重が語る小津安二郎の映画世界 [DVD]


小津 安二郎(1903年12月12日–1963年12月12日)


『晩春』や『東京物語』などで揺るぎない地位を築いた小津監督は次々に「小津的な」作品を世に送り出した。『早春』『秋日和』『秋刀魚の味』など。晩年の小津監督について吉田は「反復とズレや画面の余白とシンプルな映像表現による小津的な様式美にたどりつく。そして解釈は観客に託すという開かれた映像を展開して、小津的世界を完成していく」と言う。

 番組内容紹介より


吉田喜重によれば、東京をよく見えない舞台とする晩年の映画には小津の人生観、すなわち、人は己の人生を結局は知り得ないという境地が反映している。そして「小津的世界」とは『東京物語』に如実に示されているように、人生を「末期の眼」で見る世界である。その一種の無常観を踏まえて、小津の『東京物語』(1953)にオマージュを捧げたヴィム・ヴェンダース『東京画』(1985)を見る。



ヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders, born 14 August 1945)

東京画 デジタルニューマスター版 [DVD]

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鎌倉の円覚寺にある小津安二郎の墓を訪れたヴェンダースは、墓石に刻まれたただ一文字の「無」に少しだけ驚き、西欧人らしく「無は存在するか否か」と哲学的に自問したり、「無は恐ろしい」と素朴な感想を語る。それにしても「無」一文字とは恐れ入る。晩年の映画がそうであったように、どんな解釈をも飲み込んでしまうことで、どんな解釈も拒絶しているようにも思われる。たしかに、無常の無と考えられなくもないが、もっと深く、存在(と無)に先立つ無限定的な始原としての「絶対無」であると考えられなくもない。万物が、自我さえも、関係性(因縁)に解体された後の世界。だが、ヴェンダースは「無」にそれほどこだわらない。興味深いことに、むしろ彼は小津映画の「聖性」を何度も強調する。映画の聖地があるとすれば、それは小津の映画の中にこそあるとまで言う。ただし、ヴェンダースのいう「聖性」も一筋縄ではいかない。というのも、それは、単に世俗を否定したり超越したりすることではないからだ。なんと言うべきか、世俗の中の聖とでもいうべきか。つまり、見ることの中でどんな世俗の風景も聖なる光景に変貌しうるということ。見ること、見方こそが問われているということ。それはどこかで「末期の眼」ともつながるだろう。独特の遊離感、浮遊感をもつ『東京画』の視点は、自分の墓に「無」と刻ませた小津安二郎という死者の眼を模倣しようとしているのかもしれない。



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