家族がとあるアウトレットモールで買物する間、お父さんは自販機で缶珈琲ではなく、タリーズ(TULLY'S COFFEE)でエスプレッソを買って、広場のベンチに腰掛けてちびりちびり飲みながら、もう何度目だろう、一冊の本のある頁のある箇所を目で追っていた。それは、著者が旅の途上、己の存在も意識も圧倒し無化しかねないチベットの過酷な自然のなかで、「三途の河」のイメージの起源に触れる、これ以上のdéjà vuはないだろう、と感じさせるくだりだった。。
このような記憶の中にしっかりと描かれた三途の河というのではなく、もっと本物に近い三途の河というものを、どこかで見たような、見ないような気がする。あの静かな黄色い無人の河を、速く遡り、渡った記憶があるような気がする。
それは、自分と母の血の色が外光に透けてオレンジ色の柔らかな光に満ちていた母の胎内の羊水に自分が裸で浮んでいる時のことかも知れなかった。おそらくは、僕は本当は彼岸に行くべきところ、母の胎内の河が逆流して、<人間界>に落っこちてしまったのであろう。(207頁)
- 作者: 藤原新也
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1995/06/01
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つくづく、旅とは記憶の彼方に赴く行為でもあるのだなあ、と思いながら、広場を横切るカップルや家族連れを眺めるともなく眺めたり、空港を飛び立ったばかりの航空機が大きな弧を描いて上昇していくのを見上げたりしていた。その後、不思議なことが立て続けに起こった。赤ん坊を抱きかかえた若い母親が目の前を通り過ぎたとき、それまで私の方に後頭部を向けていた赤ん坊が突然こちらに向き直って、私と視線が合い、建物の陰に消えるまで、ずっと見つめ合ったのである。一度なら、さほど気に留めることもなかったかもしれないが、同じことが、別の赤ん坊を抱きかかえた若い母親が目の前を通り過ぎるときにも起こったのである。二人目の赤ん坊もじーっと私の目を見つめていた。思わず手を振った。何を見ていたのだろうか。何が見えていたのだろうか。三途の河を逆流して<人間界>に落っこちてしまった先輩の成れの果てを見ていたのだろうか。それとも、風太郎の影でも見ていたのだろうか。どちらでもいいのだが。
と、ここまで書いたら、南無さんからトラックバックが届いた。驚いた。
南無さん、ありがとうございます。『印度放浪』、『東京漂流』も読んでみます。