計り知れない重さと微かな鈍い光

今回の出張の合間に私はHASHI展、門司港、「広島、ヒロシマひろしま」の他に三つの寄り道をした。大阪、富山、そして京都である。















旅の主要な目的を広島で果たし終えた私は新幹線で新大阪まで行った。浪速区の鴎町公園内にある折口信夫の墓参り(これが他の三つの寄り道のうちの一つである)をした後に、ちょっと大きな寄り道を敢行するためだった。しかし翌日の夕方には関西空港から札幌に向けて発たなければならないという強行軍だった。ブログを続けることも含めた生きるということの根源的な土俵の上で是非会っておきたい人物がいた。敬愛する南無さん(id:namgen)である。南無さんは病み上がりにもかかわらず私の急な申し出を快諾してくれた。しかも実際には初対面になる私を家に泊めて下さることになった。断ることはかえって失礼、仁義に悖ることになる。そんな勢いと流れが出来上がっていた。新大阪から南無さんの暮らす富山までは特急で片道3時間かかる。山口も広島も予想外に寒かったが、敦賀あたりから雪になった。北陸地方にも急に寒波が到来したらしかった。しかも加賀を過ぎたあたりで、サンダーバードはキィーッ、ガッタンと緊急停止した。手取川鉄橋で風速30メートルを超えたためだとアナウンスがあった。いつ運転再開できるか分からないという。約束の時間には間に合いそうもない。その旨携帯メールを送信する。電話で話せないかという返信があった。デッキに出てこちらから電話しようとしたそのとき、携帯電話のバッテリーが切れた。公衆電話はカード式で、今にして思えば、車掌からカードを買うこともできたのかもしれないが、その時は諦めた。周囲の見知らぬ乗客はみな携帯電話に齧りついていて、とても借りられる雰囲気ではなかった。おそらく南無さんは富山駅に問い合わせて、列車の遅れの状況を把握しているだろうと推察して、どうなろうとも、これは運を天に任せるしかないと腹を括った。結局、一時間余りで列車は運転再開した。富山駅に到着したのは午後7時14分だった。駅の公衆電話から南無さんに到着を知らせた。五分もたたないうちに南無さんは息子さんとお孫さんを連れて迎えに来てくれた。初めて会う南無さんはドスの利いた太く渋い声の持ち主で恰幅のいい人だった。この旅では、私は父親の形見の大きなバックパック(リュックサック)を背負って移動していた。小物は小さな紙袋に入れて持ち歩いていた。お孫さんがそれを持ってくれた。富山は冷たい雨だった。今夜から明朝にかけては大雪になる見込みだという。富山駅から徒歩数分という好立地条件の場所に南無さん大ファミリーの暮らす家があった。ご家族一同の大歓迎を受けて恐縮した。南無さんは、ブログに書かれていることの流れからいって、きっと私は山口に行っているに違いないと精確な想像をされていたと聞いて驚いた。一息ついてから、わざわざ予約を入れておいてくれた居酒屋「三十丸」に連れて行ってくれた。南無家から歩いて行ける距離にある。雨は霙に変わっていた。数日前から水揚げされ始めた寒ブリをぜひ私に食わせたいという配慮からだった。脂の乗った寒ブリはいうまでもなく、鯵も、初めて食べたアオリイカベニズワイガニ、そして名前を思い出せない深海魚の天ぷら、どれもが美味この上なく、私は至福の時間を過ごしていた。しかも、会ったときから、ほとんど澱みなく、小気味良く続く南無さんの話が刺激的だった。私の想像を遥かに超える波瀾万丈の人生を歩んで来こられた南無さんの中には個としての一本のスジが貫かれている。というか一点の光を求め続けるひたむきさがある。話を聞いていて爽快、痛快だった。同席してくれたパートナーのヒロミさんは頭の回転がもの凄く速く、おちゃめで、チャーミングな女性だった。しかも、単なる生活上の苦労というのではなくて、人生に関する様々な体験と深い思索に裏打ちされた意味深長な言葉がタイミングよく彼女の口から飛び出すのだった。そのたびに、私の中の眠っていた時計の針がぴくんぴくんと動き出したような気がして、いい気分になった。そんなヒロミさんによれば、南無さんは「知」を切実に求めているのだという。目の前にいる私より一回り年上の男が、しかも私など問題にならないほど広く深い人生経験を積んで来たひとりの男が「知」を求めているというのだ。私はこのときほど、単なる情報でも知識でもなく、さりとて処世術のような知恵でもない、「知」という一文字で指されたものの計り知れない重さと微かな鈍い光のようなものを実感、痛感したことはなかった。背筋に電気が走った。痺れた。会いに来る以上、本物の「知」を示してくれるんでしょうね? 大学生や若造を教えるのとは訳が違いますよ。そんなことは決して口にはしない人だが、私は南無さんのシマに飛び込んでしまってから、事の重大さに遅まきながら気づくという自分の愚かさに半ば呆れると同時に、いや、「知」を切実に求める人こそある意味で「知」を体現しているのであって、そういう人に私は会いに来たのだと思い直した。それに、そもそも私はブログ上のやりとりを踏まえて、改めて直に仁義を切りに来たはずだったのだ。とにかく、南無さんとヒロミさんのお二人は絶妙のインタープレイでナイーブな私を翻弄しまくって、いや、温かくもてなしてくれたのだった。私の宮本常一にまつわる山口行きの話を興味深く聞いてくれた二人からは、宮本常一の「土佐源氏」を翻案した人形芝居の実現に向けた活動の話を聞いた。沖家室島で鯛の里の松本昭司さんから青柳祐介の「土佐源氏」が掲載された四半世紀前の『ビックコミック』を見せてもらった時の驚きが甦りもして、非常に興味深く、意義深い内容の話だった。それがピークを迎えたころに居酒屋は閉店時刻になった。ヒロミさんの提案で、「ジェリコの戦い」という名のジャズバーに場所を移すことになった。入店したとき、チェット・ベイカーがかかっていて、嬉しかった。聞きそこなったが、それはヒロミさんの演出だったのかもしれない。ジェリコの戦いでも話は尽きる事が無かった。ヒロミさんは気を利かせて、ビル・エヴァンスの「My Foolish Heart」やBlue Burtonのアルバムをバーテンダーにリクエストしてくれたりもした。南無さんは軍人だった今は亡き実の父上と現在病床にある養父という二人の父親を持っている。私が取り上げたことのある佐野眞一版の甘粕正彦と里見甫に対応するようなまるで正反対のようでいて一卵性双生児のようでもある根源的と言ってもいい二つの父親像が南無さんの中ではげしくせめぎ合っているという印象を持った。そして己が人の父親になったときのモデルがその二つに分裂していたため、その両者を和解させる、統合するような超父親像を切実に追い求めてきたようにも感じられた。南無さんの話を聞きながら、それは例えば、天下、国家のあり方や社会や組織のあり方を論じる場合から、個として生きる覚悟のつけ方、さらには言葉と想像力によって新たな意味空間を切り開こうとするときの作法にまで影を落とさざるをないのだなあ、と人事のように思いながらも、ふと自分と父親との関係に思いが及び、何度も涙腺が緩みかけた。ヒロミさんがある絶妙のタイミングで人と人との出会いには、心の琴線に触れるということがある、それは心の傷に触れると言っても同じかもしれないという内容のことを語った。ブログの場合でも、何気ない言葉や何の変哲も無い写真にその人自身も気づいていないかもしれない「傷」が感じられることがある、とも。その通りだと思った。しかし、中には自分のたいしたことのない傷をこれみよがしに振り回す「困ったちゃん」もいるからねえ、と。ジェリコの戦いを出た時には午前2時を過ぎていた。霙は降り続いていた。路面の中央には融雪用のちっちゃなスプリンクラー、噴水が一列に沢山並んでいた。霙は解けて水たまりだらけだった。南無さん宅に戻ってからも、話は尽きなかった。南無さんが一目置くブロガーの話から吉本隆明谷川雁の話になり、懐かしい貴重な本をたくさん見せてもらった。気づいたときには午前5時半。床につくことにした。時間がないという私の方の勝手な理由で、体調不良から脱したばかりの南無さんに無理をさせてしまったことを後悔した。午前7時に目が覚めた。外は小雪だった。朝食を終えて登校する小学生のお子たちを見送ってから、散歩に出た。駅前は出勤途中の人々で溢れていた。駅前の繁華街から県庁までの間を写真を撮りながら一時間ほどかけて往復した。散歩から戻ると南無さんが美味しいコーヒーを入れてくれた。自然とお互いの父親の話になった。外は雪が本格的に降り出したが、その後、南無さんは車で2時間あまりかけて南無さんのシマの要所要所を詳しい解説をしながら案内してくれた。市街地を一回りして港にまで連れて行ってくれた。途中何度か神通川を渡った。雪は断続的に激しく降った。南無さんは半島も山も見えない生憎の天候を残念がっていたが、私にとってはむしろ富山の風土のもっとも厳しい一面に触れる喜びが大きく、特に雪にけぶる港の風景に大いに魅せられて幸運を感じていた。「光」を撮ることもできた。富山を発つ時間が迫っていた。家に戻って、一息ついてから、南無さんとヒロミさんと三人で歩いて駅に向かう。お二人はプラットホームにまで見送りに出てくれた。ゴリラボッドを使って記念撮影もした。特急サンダーバードがホームに入って来た。ヒロミさんが気を利かせて私を入れた写真を撮ってくれた。私は自由席5号車に乗り込んだ。お二人はまだホームにいた。窓越しに写真を撮った。列車が動き出した。二人の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。駅を出てしばらくして、ふと窓の外を見ると、サンダーバード神通川の鉄橋を通過するところだった。かつてなんと言う歴史的に皮肉な名前かと思われた神通川の川面が雪の中で鈍く微かに光って美しく見えた。



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その後、私は京都駅で途中下車した。最後の寄り道である。山崎さんと再会するためだった。時間は一時間もなかったが、いくつかの理由から是非直接会っておきたかった。その顛末については山崎さんが書いてくださった。

お客さま(『Fere libenter homines id quod volunt credunt』2009-12-18)