「人生に重要なことなどなにもありはしない」か

先日、南無さん(id:namgen)から、苦痛と絶望に打ちひしがれて死の床にあった老人の最期を看取ったときの話を聞いた。老人は己の罪過の故、「地獄」行きを覚悟していたという。それでも「死んだらどうなるんだ。やっぱり地獄行きか」と老人は微かな希望を手繰り寄せようとするかのような口調で言った。南無さんはその老人にはっきりと力強くこう言った。「おやじさん、心配するな。極楽に行ける。必ず極楽に行ける」それを聞いた老人は「そうかあ、、」と安堵の表情を浮かべ、間もなく逝ったという。そんな言葉が交わされた時空こそが極楽だったのだと思う。地獄といい、極楽といい、絶望といい、希望といい、あくまでこの世のこの心の「いま、ここ」の様相なのだと思う。


他方、松本昭司さんが取り上げた「自殺大国ニッポン」(佐野眞一)の背景には薄墨で描かれた地獄絵図のような現実の状況があり、程度の差こそあれ、皆不安を胸中に宿しているにもかかわらず、ギアチェンジどころか、「赤信号、皆で渡れば怖くない」という調子で、もっとアクセルを踏み込んで、「いま、ここ」が地獄であることを忘れるような、巨大な忘却システムに絡めとられてしまっているような気がしてならない。



そんな、そうとは気づかれにくい「地獄」の中でもっともらしく生きることの愚かさと哀しさを、自らはそこから限りなく逸脱、堕落しながらも、ということは覚め切って、そんな現実をまるごとそっと抱くようにして、歌い続け、トランペットを吹きつづけたひとりのミュージシャンのことを想う。バランスつまみの欠損した「ジャンク品」のAU-D607G Extraは私にとってはいい音出してるよ。いつまでもつか分からないけど、、。



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いかなる悪をも流通、消費させる後期資本主義そしてポスト資本主義のいまにあっても、チェットほどの無為、無意味、空虚は生産財としての回収がむずかしく、CM化すなわち資本のための物語化と認証も不可能にちかい。まして、国家権力がチェットを利用しようとしても国家の崩壊につながりかねない。”ワースト・ジャンキー”なのだ。それこそがチェットの逆説的偉大さなのである。(中略)ジャンキー・チェットの音楽を、それでも私は偏愛している。あぶない病気になり病室でよこたわっているしかなかったとき、こころにもっとも深くしみたのは、好きなセロニアス・モンクやマイルスではなく、好きではなかったチェットの歌とトランペットであった。最期にはこれがあるよ、と思わせてくれたのだ。猛毒入りの塗布剤のような、はてしなく堕ちていく者の音楽が、痛みをなおすのでもいやすのでもなく、苦痛の所在そのものをひたすら忘れさせてくれた。くりかえすが、彼の音楽に後悔や感傷は、あるように見せかけているだけで、じつはない。<人生に重要なことなどなにもありはしない。はじめから終わりまでただ漂うだけ……>というかすかな示唆以外には、教えてくれるものもとくにありはしない。生きるということの本質的な無為、無目的を、呆けたような声でなぞるチェットには、ただ致死性の、語りえない哀しみがある。(辺見庸「甘美な極悪、愛なき神性」、『美と破局毎日新聞社、2009年、21頁〜22頁)


「人生に重要なことなどなにもありはしない」という言葉には膨大な注釈が必要だろうが、私にとってはくるりと反転して本当は「人生には重要でないことなどなにもありはしない」という言葉に聞こえる。人生ではどんなことでもすべてが重要なはずなのに、それをおろそかにしてきたツケを今払わされている、その落とし前をつけさせられている。そんな気がする。