構築と解体


机の上にばらばらに置かれていたムクゲダチュラ洋梨、ボケをこうして配置すると「顔」に見えてくる。無関係な四つの要素が「顔」という像を結ぶ。「顔」という文脈、ゲシュタルト、パターンを形成する。そのとき、ムクゲはもはやムクゲではなく、ダチュラ洋梨もボケもそうではなくなりつつ、相互の関係の中で、「口」になったり、「鼻」になったりする。これを<構築>と呼ぼう。

ここでの「顔」に相当するものが、人生においては物語や世界観や価値観だと思う。だから、同じ素材を手にしていながら、そこに見えているものが全く異なるということが起こる。素材をただぼんやりと眺めているだけでは、それらが配置される文脈、ゲシュタルト、パターンを創出、更新できない限り、ダチュラダチュラのままであるか、いつもの「顔」しか見えないままであろう。新しい「顔」を見たいのであれば、新しい文脈、ゲシュタルト、パターンを生み出すしかない。そして、そのためには、今見えている「顔」をいったん壊し、素材相互の関係を深く見直すしかない。



後は試行錯誤である。

それから、もうひとつ、忘れてはならないのは、<解体>である。ひとつひとつの素材を徹底的に洗い直す、見直すことである。



こうすることで、ムクゲはもはやムクゲではなくなり、美しい和紙のようにさえ見えてくるし、洋梨洋梨ではなくなり、何かの動物の革のようにさえ見えてくる。そしてそこに新しい文脈、物語の萌芽が見え隠れし始める。ぼくらが要素とみなす対象は実は非常に不安定で不確定なのだ。

新しいものの学習は、古いものとの闘争であり葛藤であり、この上ない自由である。