このエントリーをアップしようとしたら、またまた恐ろしいタイミングで、下川さん(id:Emmaus)からコメントが入りました(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090829/p1#c1251552305)。下川さん、本質的には応答にもなるのではないかと思うので、このエントリーを返事だと思って読んで下さると嬉しいです。下川さんのおっしゃる「考え抜くということ」の要は現実に対する「覚悟の深さ」だと思うからです。
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先日のタクオとの対話の中で、ブログに関して、さすがに鋭い所を突いてくるな、と感心したことがありました。町内のある知り合いの方を紹介する際に、苦し紛れに顔の部分だけボカした写真を載せたことがあるんです。まだまだ未熟な証拠です。未熟とは覚悟が浅いという意味です。それでは、「書きたいけど書けないことがある」と書くのと同じレベルじゃないか、と思い知らされたわけです。このエピソードは写真の力、言葉の力について大切なことを物語っていると思います。
撮りたい、見てもらいたい花の写真で、肝腎の花の部分がボカしてあったら、それは何だ?ということになるでしょう。見せたいけど見せられない花の写真は花の写真とは言えない。これは極論ですが、それでは、写真には何の力も宿らない、何の魅力もないということになります。もっと言えば、自分で自分の体験を検閲していることになります。同じことが、文章についても言えると思うのです。
言葉の力は何に由来するか。それは自分が関わる現実に対する覚悟の深さだと思います。書きたいという気持ちの強さと書くか書かないかの決断の深さの結合だと思います。そこには書きたいけど書けないという選択肢はありえない。それは写真のボカしと同じで、自分が関わる現実、そこでの体験を自ら検閲していること、要するに現実に負けていることだけを物語ることになる。そんなみっともないことはない。それでは、他人の体験の文脈を引き寄せる本質的な力などは持ちえない。書きたいのであれば、とにかくなんとか方法を工夫して書くか、書くには及ばないところまで現実そのものの中で燃え尽きる、消尽する。どちらかである。
文脈はかけ離れていますが、
語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』7)
そう思います。
ちなみに、引用したウィトゲンシュタインの言葉は、論理や哲学の専門的な文脈を離れて、ぼくらの体験の色々な文脈をも引き寄せる力を持っています。つまり言葉に力がある。それは人生の根本的な文脈における覚悟の深さによるのだと思います。
最近、町内の知り合いの方々について書くことが増えてきたということもあって、ブログを書く上で一番気にしているのは覚悟の深さの問題です。実際には、めんこいねえのおばあさんやMr.Kこと小坂さんやBさん、Uさん、Oさん、M平さん、A平さん、M道さん、M野さん、原生林の管理人さん、その他の町内の知り合いの方々との付き合い、関係の深さには程度があって、それによって必然的に書き方は変わります。根本的には敬愛、尊敬の念から書いていることに変わりはありませんが、「書きたい」と思っても、同じようには書けないわけです。
それがブログにあらわれているぼくの現実との切り結び方、渡り合い方で、現実からブログへ移行する正直な身振りです。そんななかで、書きたいけど書けないと書いてしまうことに等しい、顔だけボカした写真を使ってしまったということがあったわけです。自分でもそのときの浅い覚悟の気持ち悪さは自覚していました。でも、書きたかった。写真を載せたかった。ならば文章だけで貫くか、堂々とボカしを入れない写真を掲載するか、どちらかしないと思いながらも、中途半端な覚悟で顔だけボカしを入れた写真を載せてしまった。後悔しています。二度と同じ過ちは繰り返すまいと肝に銘じました。
原則的には、何度も書いたように、「書きたいならなんとか方法を工夫して書く。書きたくないなら書かない。終わり」です。その覚悟の深さが言葉の力として露になる怖さが身にしみます。
書くか書かないか。そこで立ち止まって自分の覚悟を深めなければ、負けてしまう。何に? 現実に。そう感じています。分かりやすく言えば、外の現実について書いた文章が現実そのものよりも「面白い」かどうか、あるいは、それによって外の現実に対して目を見開かされる、目からうろこが落ちる思いになる文章が書けたかどうか、あるいは、その文章によって現実を見る新しい目を持てるようになるかどうか、が勝負の分かれ目である、と。
ブログの意味や理由、あるいは内容と方向性に関する議論に際しても、ぼくは、書く上での覚悟の深さのことを、「ブログの現状」として俎上に乗せたいという気持ちが強いのです。ぼくはそこで先を急ぎ過ぎるきらいがあるのかもしれません。ここまで書いてみて、そう思いました。中山さんが指摘して下さったように(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090826#c1251417829)、たしかにぼくは性急なのかもしれません。
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ところで、ぼくは多いときには一日に六つとか七つのエントリーを書きます。しかし、それが「多い」とはまったく感じていません。急いで書いているという実感もありません。むしろ書き足りない、遅い、といつも感じているくらいです。見た目の量は問題ではない気がします。たしかに、何よりもまず最近は写真が多いということ、そして作家や植物の形態や色に関するものをはじめ、明確な複数のテーマ(主題)をほぼ同時進行させているということはあります。
この点に関してもう少し本質的なことを言えば、ウェブ上の「理想の本」という妄想に関連するのですが、すでに「リンク集」に載せているような「アンソロジー」という緩い束ね方が、最近はかなり早い時期から念頭に浮ぶようになったことが大きいかもしれません。この「アンソロジー」とはあらかじめブログのシステム側に用意された「カテゴリー」よりも大きく有機的なつながりをもった未完の構造で、「理想の本」の部分的なモデルです。ちなみに全体的モデルはブログそのものです。そのような「編む」行為が「書く」行為と重なってきて、書くことが加速していることは確かだと思います。そしてそれが人によっては性急さや変節に映るのかもしれないと思います。
ウェブ上の「理想の本」という話はさておき、「予感」(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20090828/p2)というエントリーで少し書いたように、タクオとの対話でも話題に上ったことですが、出版ビジネスに関わる人たちの側から、本とウェブを区別した水準で、ウェブを手段にして、本を売るのが目的というありふれた構図、手法ではなく、本を本のままに、しかもブログに面白くつなげるという本とブログの関係を一段深めた水準で色々とビジネスのアイデアが出てくれば、愉快だろうなあ、と思っています。あまり期待はしていませんが。