記号

ときどき、自分も所詮一個の<記号>みたいなもんだという思いにとらわれる。色んな場所で変な流通の仕方をする記号。思いがけない交換に晒されることもある記号。貨幣にはなれない中途半端で出来の悪い記号。悪貨か。実名か匿名かはほとんど関係ない。それでも、少しはスマートに流通させてみたいと欲張ることもある。新しいマーケットに打って出たい、みたいな欲望? だが結局は……。

朧げな記憶によれば、英米流の記号学Semiologyでは、言語も一種の記号とみなすが、フランス流の記号論Semioticsでは言語的了解の地平(言語活動)を記号現象の下に置く。言語あっての記号である、というわけだ。学生の頃、成り行きから前者に比較的深く関わったにも関わらず、心情的には後者に傾いていたことを懐かしく思い出す。

こうして書いたものや写真やたまに動画を公開しながら、それらも畢竟、<記号>にすぎない、と思うことがある。読む人、見る人が、様々な意味をそこから引き出す媒体としてのオープンな記号。公開した途端、私の主導権は消える。主導権は読む人、見る人に瞬く間に移行する。意味の遠近法が反転する。一点から透視していた、あるいは俯瞰していた世界が、複数の視点から見られる世界に分裂する、多層に分離する。それをどう勘違いせずに引き受けるか。

例えば、一枚の写真がある。ピンぼけのヒメジョオンの写真である。私にとってそれはあのときあの場所でああやって撮った忘れがたい好きな写真であるという個人的な体験の意味が色濃く反映した記号であり続ける。だが、人はそのような私の思いとは無関係にそこから色んな意味を読みとることができる。そして様々な評価を下すことができる。その間には通路はないように思われる。ところが、稀に思いがけない通路が開くことが起こる。ブログを続けてよかったと心底思う瞬間が訪れる。