自動車整備工場、愉快なシンガー



散歩でめぐる住宅街の東の端っこの細い裏道に、そこだけ昭和の空気を色濃くとどめた小さな自動車整備工場がある。連休中も営業していた。その前で立ち止まって、壁に掛かった色んな工具を眺めるのが好きだ。なぜか交番がお得意様らしく、ときどきタイヤを外され宙に浮いたままのミニパトを見かける。やはり旧式の車が持ち込まれることが多いようで、時々懐かしい車にも出会えるのも楽しみだ。今朝は整備を終えたばかりといった気配の漂うスズキのジムニーを見かけた。80年代初めの二代目モデルだろうか。そんな周囲とは異質な時間が流れる自動車整備工場を通り過ぎて、ぼんやりと歩いていたら、突然左の耳に聞いたことのないメロディーに乗った聞いたことのない言葉が飛び込んできて、ギョッとした。左を見やると庭に面した部屋の窓を大きく開けて外に向かって歌うおっちゃんがいるではないか。おちゃんといっても、私よりは若く見えたが、私よりはずっと貫禄のある男だった。目がばっちり合ってしまい、思わず、頭を下げると、彼は歌を歌うのを止めて、私を驚かせたことを謝り、それが、つまり窓を開けて外に向かって大声で歌うことが、日課であると語った。面白い奴だ。「そうですかあ。いいですねえ」と答えたものの、私はただの通りすがりに過ぎない、、。彼が歌いかけた歌は詩吟のようにもオペラのようにも聞こえたが、未詳。次回、こっそりと物陰から拝聴しよう。また、愉快な人に出会ってしまった。


追記。「愉快なシンガー」さんについて書きそびれた大事なことがある。何かというと、私にとってはその前を通り過ぎる他人の家の「庭」の一つにすぎなかった空間は、彼にとってはまったく別の空間として体感されていたに違いないということである。ストリート(あるいはサブウェイ)・ミュージシャンをちょっと連想した。もっとも、住宅街という環境だし、庭の中なので、ガーデン・ミュージシャン、ガーデン・シンガーと呼ぶべきだろうが、ある意味ではストリートやサブウェイにおけるよりもずっと過激な行為だと言えるかもしれない。彼にとっても一日の大半はそこはただの「庭」に過ぎないだろう。しかし、ひとたび居間の窓を大きく開けて歌い始めた瞬間に、そこは彼の歌声に耳を傾ける見えないオーディエンスに埋まったような強度に満ちた空間に変容するのかも知れない。それをはた迷惑な幻想だと簡単に切り捨てることはできない。ぼくらが現実と信じている世界は、十人中九人が信じているはた迷惑な幻想に過ぎないとも言えるからである。そしてもしかしたら近い将来には残りの一人が信じていた幻想が現実に化けるかもしれないではないか。幻想にすぎないという点は彼も了解しているはずだ。というのも、思いがけず私のような得体の知れないオヤジがカメラを片手にふらふらとその幻想の真っ只中に闖入してきたのに気づいた彼は、とっさにスイッチを切り替えるようにして、こちら側に言葉を掛けてきたからである。私としては彼が一曲歌い終わったところで、拍手喝采するというのが理想的展開ではあったが、彼はそこまで自分の幻想を他人に強制する傲慢さがなかったのだろう。十人中九人が信じる幻想の隙間を狙って、細々と十人中一人だけが信じる幻想を生き延びさせているということかもしれない。しかし、彼の笑顔は、私もどちらかと言えば、十人中一人の側の人間かもしれないと彼が感じた証かもしれない。次回出会ったときにそれは分かるだろう。