羊の角に触れよ


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藤原新也が、麻原彰晃こと松本智津夫の郷里八代を歩き、実兄満弘に会い、そして熊本県庁の水俣病対策課への度重なる接触を通じて、オウム真理教事件の病根を「われわれの問題」として一部解いていたことを知らなかった。目に焼き付け、足に刻み付け、耳を研ぎすます佐野眞一ルポルタージュの作法を彷彿とさせる捨て身の「取材」に基づいた優れたノンフィクションを読んだ気分にさせられた。しかも、インドとチベットの旅の意味が宗教の根っこを掘り起こすように逞しく語り直される。目や足や耳の記憶は何度でも語り直され、語り直されるたびに世界の新しい地平線が陽炎のように浮びあがる。本書を通して、藤原新也は人間にとって最も困難な「事業」のひとつについて意味深長に語っている。

 私ははじめて出会った動物にはいつもそのようにした。見知らぬ者を目の前にした動物は警戒し、脅えている。そんなとき私は本能的に目線をできるだけ低くし、ときには無防備を示すためによそ見をしたりうしろ姿を見せたりした。動物の警戒がゆるんだ隙を見て親愛の情を込めて話しかける。一定の距離を保ち、そこから先へは近づかず、相手がやってくるのを根気よく待った。私はかつてネパールの山岳を旅したときにこの手で、あの警戒心と好奇心豊かなトンマウンテンゴーツの子供の頭に一瞬触れたことがある。それが自慢の種だった。私はあるとき、そのことを一人の老いたチベット僧に話した。僧は私がそのようにできたことを愛でるように微笑みながらゆっくりと何度もうなずいた。そして笑みながらも次に静かな調子でこう言った。

「 ……今度はその子の親の角に触れさせてもらうのだね」

 一体世界にそれほど困難な事業があるだろうか。他者を殺めることのできる武器に優しく触れなさい、と彼は言うのだ。しかもその山羊は身を挺して守るべき我が子を囲っている。私はそんなことは一生かかってもできないだろうな、と思った。しかし、そんな山羊の角にむかって一歩でも二歩でも近づいていくことはできるだろう。そう思った。

「……中国の兵隊がやってきたとき、多くのチベットの僧たちが、親愛の情を込めて、その凶暴な山羊の角に触れようとしたのだよ」と僧は言った。「このように手を合わせてね。しかし、あのとき誰もがそれに触れることはできなかった。銃口が火を放ち、多くの僧が倒れていった。同じ人間でありながら荒み狂った人間の心に触れることは、異なる動物の心に触れることよりもずっと難しいことなのだ。しかし私の知る限りたった一人の僧が荒れ狂う山羊の角に触れた。一人の中国兵が銃口をうなだれるように下げ、その場をゆっくりと立ち去った。偉い僧だった。(269頁〜270頁)

ここで忘れてならないことは、動物の場合はさておき、人間の社会において私は、沈着冷静で知恵と勇気のある「チベット僧」なのか荒れ狂った「中国兵」なのかということである。