それでも、やっぱり、私は、庭を持たないせいかもしれないが、丸山健二の白い薔薇が一際美しい田舎の大きな庭よりも、たとえ都市の真っ只中であっても、藤原新也が鉢に雑草を植えたベランダのような、らしくないぎりぎりの空間の方に惹かれる。かえって、深さと広さを感じる。そんなベランダこそ、「荒野の庭」というに本当に相応しいとさえ感じる。「一坪遺産」(坂口恭平)にも通じる。そしてそれを語る言葉と想像力の働きのしなやかさと深さと広さにおいても現代のひとつの思想的最前線をかたちづくっているように思える。
私はたったひと茎の草をアジアの西から持ってきただけのことだった。その一本のひ弱そうな草の葉が、この東京もアジアでありながら、その一隅ではじめて私のアジア人としての生理に深く浸透する小さな土地を回恢復させたのである。
そして、そのシトロネラ草の根づく小さな土地は、この日本に土地を持たない私が、皮肉にもはじめて手に入れた、信頼に足るひとにぎりの土地である。(『東京漂流』71頁〜72頁)
私のアパートの前の、駐車場がわりになっている空地の隅にも毎年鬱蒼と生える。この駐車場の管理人は、この花に憎しみを抱いているのか、それともアレルギー性鼻炎の持ち主なのか、秋、花が開くとすぐに刈り取りにかかる。私は彼が刈り取らぬ前に、それをひとかかえほど刈り取ってきて石油缶の水の中に突っ込み、ベランダの上に泡立草の茂みをつくる。(『東京漂流』340頁)