詩と真実



沖家室島、「鯛の里」にて




富山、「ジェリコの戦い」にて


沖家室島の鯛の里で松本昭司さんによって灯された火に、南無さんが油を注いだ。ジェリコの戦いでは、「土佐源氏」を題材にして、ノンフィクションの語りの位相をめぐって、ああだこうだと南無さんと話したり、あれこれ思ったりした記憶が朧げながら、ある。


佐野眞一は『旅する巨人』(asin:4167340089asin:4163523103)のなかで、宮本常一の「土佐源氏」について、宮本はその語りにおいて、敢えて民俗学的「真実」よりも、民俗的「詩」の方をとった、という内容のことを主張した。詩か真実か、で言えば、詩をとった、と。私の解釈では、佐野のいう「真実」とは「事実」に近く、「詩」こそ「真実」である。語るということが、単に過去の出来事を再現することに尽きるものではなく、語る者自身が無自覚であるとしても、それは根源的に未来あるいは希望に加担する行為であり、しかも、聞く者あってこその語りであるならば、それは事実を越えて他者との間の未来あるいは希望に関わる「真実」に向けられた力を孕んだ虚構(フィクション)である。何だか、難しい言い回しになってしまったが、当たり前か、、。


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