曲がり角

行き止まりだと思っていつも引き返していた道の曲がり角の向こうに広がる風景をあのときこの目で見てしまった。


沖家室島で民宿「鯛の里」を営む松本昭司さんが、私との路上生活者談義にも触れながら、人生の「ギアチェンジ」について書いている。

最近、ギアチェンジという言葉が頭から離れない。佐野眞一さんが書いたルポ、昨年12月25号週刊ポスト「『自殺大国ニッポン』の正体を探る」を読んでからだ。

「ギアチェンジ」ーー佐野眞一さんのルポから(『鯛狸(=^・^=)の豆日記』2010年01月07日)


加藤和彦の自殺にもふれる内容は、今まで何度もギアチェンジし損ない、ターニング・ポイントを見逃して来た私にとっても他人事ではなかった。松本さんが示唆している通り、「自殺」のようにエンジンを切ってしまう前に、ギアチェンジする余地はいくらでもある。かつて7メートルの岸壁から転落し、腰の骨を砕き、いまも腰にメタルが入っていて、百メートルも続けては歩けないという松本さんの言葉には説得力がある。いつもターニング・ポイントを探し、ターンするタイミングを計っているようなところが私にはあるが、松本さんのいう「ギアチェンジ」も「ターン」も頭の計算通りに運ぶ性質のものではなくて、ある時いわば本能的に身体ごとそっちに向いてしまう、そっちの方に行ってしまう出来事であるような気がする。だが、その身体的、本能的な反応がずいぶんと弱っている、鈍っているという自覚があって、それを賦活するために、頭に逆らって、「歩き」つづけている、、。



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ところで、辺見庸は「存在は裸形をおそれて幻影をまとうのだ」という市川浩の身体論の言葉を引用しながら、「自己身体として生きる」しかないのだということを、脳出血で倒れた後、以前にもまして身にしみて痛感していると書いている。

老いて病んだ自己身体に即して世界を眺める。なるたけ裸形を怖れず、幻影をまとわず、格好をつけずに風景に分け入る(辺見庸『自分自身への審問』毎日新聞社、2006年、11頁)


老いたり、病んだりしていなくても、身体こそは、自分の思い通りにはならないが、しかし、世界の変調に最も鋭敏に反応しているはずの、最も身近な<自然>そのものであることを、私は時々見失い、どっちを向いても行き止まりだと頭は諦めてしまいそうになる。そんなとき、行き止まりの向こう側に「メタルおやじ」の松本昭司さんの笑顔が浮かぶ。