人間の匂いのする仲間:フォト・ジャーナリスト長倉洋海


エル・サルバドル、レバノン、イラン、アフガニスタン、フィリピン、山谷、南アフリカ、アマゾン、コソボシルクロードと世界の紛争地域や辺境を駆け巡ってきたフォトジャーナリストの長倉洋海さんは、「地球温暖化」の影響の有無をこの眼で見たいという動機もあって、昨年5月には北極点に近いグリーンランドの町カナックにいた。イヌイットの人たちのイッカク鯨やアザラシの狩りに同行し、犬ぞりに乗って最奥の村を訪ねたという。そしてグリーンランドの次には南太平洋ミクロネシアの島カピンガマランギ環礁を訪ねたいと書いていた(長倉洋海『地を駆ける』405頁)。


長倉洋海は稀有なフォト・ジャーナリストだと思う。「戦場カメラマンはハイエナだ」(ロバート・キャパ)という言葉は彼には当てはまらない。彼はどこへ行ってもそこで出会った人たちと「仲間」のようになってしまう。そんな仲間の写真を撮る。それを写真展や写真集として公表するだけでなく、再訪しては彼らの消息をたしかめ、前回撮った写真を渡すよう心がけている。紛争地域の仲間にはもう会えない人も少なくない。


そんな長倉さんは、1987年に、フィリピンからの出稼ぎ労働者が集まっていた横浜の寿町のドヤ街、さらには山谷のドヤ街に入り込んだ。長倉さん自身はそれほど自覚していないようだが、そういう場所でも彼は自然と仲間を作ってしまう。そこで生きる人たちから仲間のように受け入れらてしまう。そんな彼だから撮れる写真、そんな彼にしか撮れない写真に胸を衝かれる。長倉さんの眼は、人間が生きるぎりぎりのところで共有しうる「希望」を見据えているのだと感じる。

 山谷の労働者は仲間思いだ。一度、仕事がなく路上を生活する人に弁当を買って渡したことがある。数日後、一人の男が「この前は仲間を助けてくれてありがとう、な」とウナギ弁当とお茶を手渡してくれた。洗った作業着を路上生活者の仲間に渡す者もいた。手配師から仕事をもらいやすいようにという配慮だった。
 こんな男たちが暮らすのが山谷のドヤ街。高層ビルが立ち並ぶ都心でも、人々が買い物に向かうお洒落なショッピンブ街でもない。しかし、ここには人間の匂いがあった。それはエル・サルバドルに、そして、アジアに通じる匂いだった。(長倉洋海『地を駆ける』189頁)


「希望」と書かずに「人間の匂い」と書くところが好ましい。長倉さんのドヤ街ルポは『地を駆ける』でも概説されているが、『フォト・ジャーナリストの眼』(岩波文庫、1992年)に詳しい。その中でも、山谷を「ヤマ」と愛着を込めて呼ぶAさんのエピソードに胸が熱くなる。

「毎年夏祭りが楽しみでね。ヤマ(山谷)からは仕事以外、一歩も出たことないもの。ここには仲間がいて、困った時には助けてくれるし。みんなやっぱり、ヤマに戻ってきちゃうね」。夏祭りの間中、Aさんは昼間から準備を手伝っていた。「ヤマに来てからもう十三年になるなあ。時々、夜なんか、故郷を思い出してしまうんだ。うん、もう三十年も帰っていないけど、景色は本当によく覚えているよ」とAさんは話す。(204頁)


Aさんが山谷を「ヤマ」と愛着を込めて呼ぶのは、「仲間」がいるからだ。

マスコミが伝えてこなかった山谷。その山谷を取材することで、エル・サルバドルの内戦も、フィリピンの出稼ぎ労働者も、南アフリカアパルトヘイトも、そして、日本の現状も、私の中で、そのすべてがつながっていくのがわかった。世界を見ることは自らが住む日本を問い直すことであり、山谷を見ることは日本の縮図を見ることだった。いま、私は日本を見た眼で、再び世界をとらえ直してみたいと思っている。(218頁)


長倉さんは見るだけでなく、写真を撮るだけでなく、身体ごとその場に入り込むことによって、本質的に「戦争」状況にある世界のあちらこちらで人間としてのぎりぎりの絆によって結ばれた「仲間」を作っているのだと思う。「人間の匂い」のする「仲間」。



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