ヤマの写真家・山口勲の「戦場」



 山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』(海鳥社、2006年) asin:4874155731 118頁〜119頁


山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』(海鳥社、2006年)は、ヤマで生まれ、ヤマで育ち、ヤマで働き、ヤマを撮り続けたヤマの写真家「イサオちゃん」こと山口勲さんの人柄や撮る写真に惚れ込んだ人たちの熱意によって出来上がった類い稀な素晴らしい写真集である。この写真集の編集に深く携わった上野朱さん(上野英信のご子息)によれば、写真集作りが具体化したきっかけは、2004年に川俣正さんが主宰した「コールマイン・プロジェクト」の一環として田川市の成道寺公園の一角で開催された「山口勲写真展」に遡る。そのとき川俣正さんとスタッフは保存用にと写真のスキャンまでしてくれたという(「編集を終えて」159頁)。そこから、本橋成一さん、上野朱さん、姜信子さん、塩谷利宗さんによる本格的な写真集作りが始まった。出版に際しては、森崎和江さん、鎌田慧さん、栗原達男さんが寄稿した。そして福岡を拠点とする海鳥社の社長西俊明さん、編集者の杉本雅子さんの名前を山口勲さんは銘記している(「あとがき」158頁)。この写真集では山口勲さんのヤマの写真群に「ヤマに生まれて」「炭住暮らし」「石炭掘る仕事」「事故を撮る」「響けうたごえ」「ヤマの子ども」「アリラン峠」「ヤマの終わり」「カメラ」という九つの入口が設けられ、それぞれに上野朱さんと姜信子さんによる聞き書きの充実した文章が添えられている。巻頭に置かれた本橋成一さんによるフォトジャーナリズムとは無縁の山口勲さんの写真の特質を鮮やかに浮び上がらせた短文「ヤマで暮らし、ヤマを撮る」によってヤマの世界が遠望されるように静かに開示され、姜信子さんによる山口勲さんの人間的魅力に迫る長文「イサオちゃんの話」によってヤマの世界は一気に引き寄せられるように展開され、いよいよ九つの入口に案内される。巻末には、山口勲さんの写真の意義を時代的あるいは社会的背景から明らかにする、先述した鎌田慧さんの「壮大な弔い合戦」、栗田達男さんの「筑豊文庫で出会った『分身』」、森崎和江さんの「元坑内婦に育てられ」が置かれている。そんな見事な構成になっている。


山口勲さんの客観的な経歴には「ヴェトナム」が出てくるところにちょっとひっかかった。

山口勲(やまぐち・いさお)

1937年、福岡県中間市生まれ。水巻高校卒業後の1957年から、日炭高松炭礦で採炭夫や捲方、仕繰夫として働く。1965年、従軍カメラマンとしてヴェトナムへ渡り、戦火の中の民衆を取材。帰国後は日雇い労働者、会社員、運転手などの職をこなし、98年にヴェトナム再訪。2004年、初の写真展が開かれる。中間市在住。

山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』より)

1965年、従軍カメラマンとしてヴェトナムへ渡り、戦火の中の民衆を取材。


最初は、腑に落ちなかった。このヴェトナム行きについて、姜信子さんは「イサオちゃんの話」のなかで次のように語っている。

 その昔、ヴェトナムで従軍記者をしたり、筑豊に出入りしたりしていた写真家に、真の報道写真家は民衆のなかから出るべきだ、さあ、イサオ、ヴェトナムに行って来い、ヴェトナムの労働者のなかに入っていって労働者の気持ちを体験してこいと言われたらしい。よくよく考えてみれば、ヴ・ナロードするまでもなく、自分自分地の底の労働者なのに、そのことをうっかり忘れて、イサオちゃん、ヴェトナムに行ったんだそうな。で、ヴェトナムから帰ってきて、やっぱりぼくには相も変わらずヤマの写真しかないです……

イサオちゃんの話」より(山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』13頁)


山口勲さんご本人はヴェトナム行きついて「あとがき」のなかでかなり畏(かしこ)まった調子で次のように語っている。

 一九六五年の夏、八年間の坑夫生活に見切りをつけ、カメラマンとして上京し、本橋成一さんのお宅に二カ月間居候し、上野英信、岡村昭彦両師匠の支援を受けヴェトナムへと旅立ち、六カ月の滞在生活を終え帰国。しかし私は帰国するや総括することなく、恩師を裏切り総てを放棄して逃亡した、いわばケツワリ坑夫でした。あれから四十年の歳月がたち、この思いは重く深くのしかかって一生消えることはありません。

「あとがき」より(山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』158頁)


その「恩師を裏切り総てを放棄して逃亡した」ときの経緯(いきさつ)についての山口勲さんの述懐が興味深い。

 ぼくはヴェトナムから戻ってきてから、ふぬけになっとりました。出征してケツ割って帰ってきたような、脱走兵のような気分だったんです。新鮮なうちにヴェトナムのことを書けと岡村昭彦さんに言われたけど、作文のサの字も知らんでしょうが。精神的に行き詰まっとったんです。
 ある時、筑豊文庫の上野英信さんのところに来ていた岡村さんが、知り合いの家から自転車を借りてきていて、「イサオ、返してこい」と言われて、自転車を返しに行ったのはいいんですけど、筑豊文庫には戻らずに、そのままバスにフラーっと乗ったんですな。そん時、どういうわけか、カメラをぶら下げていたんですが、折尾駅に着いたはいいけど、どこにも行く金もないから、カメラを質に入れて、一万円。さあ、どこに行こうか……。
 久留米に中学時代の同級生がいて、そいつとはヴェトナムに行く前に何回か山に登ったりしたんだけど、その同級生の家に一泊か二泊したよなあ……。そいつは結婚してたから、そんなに長くもいられず、それから熊本の豊野のおじさんのところにまた一泊か二泊。炭鉱時代の知り合いを思い出して、次は鹿児島の志布志に三日くらいいたかな。
 で、帰るに帰れず門司港に行ったんです。夕方やったかなあ、陽が落ちかかっていたなあ。門司港に飛び込んでしまおうか……。あちこち迷惑かけるなあ……、おれひとりの問題じゃないなあ……。ふと後ろを振り返って、気を取り直したんです。

アリラン峠」より(山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』128頁)


そうか、そうだったのか。山口勲さんは先月私が佇んだあの門司港で死のうとしたのか。でも、「ふと後ろを振り返って、気を取り直した」。振り返った先には「ヤマ」がはっきりと見えたのだろう。結局、ヴェトナムは山口勲さんにとって本来の「戦場」ではなかったのだ。山口勲さんは本来の「戦場」であるヤマに戻った。そして、やがてそのヤマにも終わりがやってきた。ヤマは消えた。しかし、ヤマの記憶は山口勲さんの撮った写真のなかでいつでも甦る。

 幼なじみの女の子にカメラを借りて以来、ずうっと炭鉱を撮ってきたってのは、今思えば自分の生き様を撮ってきてるんですね。仕事してる人、風呂に入っとる人、路地で赤ちゃんあやしてる人、それから遺体になって柩に入ってる人も、全部自分の姿ですよ。自分の歴史を刻むというようなことですかなあ。
 ぼくが実際に炭鉱で働いたのは、坑内坑外合わせて八年ですけど、ぼくらがこんな生活をして、その蔭にはこういう闘いもあり、悲惨な事故もあり、地底のこういう労働もあった。そして女の人たちも一緒にこうやって働いていたというような、それを忘れたくないですねえ。

「ヤマの終わり」より(山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』138頁)


この写真集で、写真の作業全般を担当した本橋成一さんは、かつて写真家を目指し、土門拳の『筑豊のこどもたち』にあこがれていた若い頃に、上野英信筑豊文庫で山口勲さんとはじめて会ったという。本橋さんは、フォトジャーナリストの陥穽を鋭く指摘しながら、フォトジャーナリストではなかった山口勲さんの写真の特質を鮮やかに浮びあがらせている。

 筑豊の人たちは土門拳さんが嫌いだ。それは人格に対する拒否反応ではなく、筑豊をあそこまでピシッと写真の中に切りつめて、”悲劇”を定義したことへのいらだちのようなものであろうか。筑豊の人たちからすると、あそこまでやられてしまうとさびしい、恨めしいことなのだ。
 山口さんはフォトジャーナリストの世界とは無縁な写真家だ。ぼくはもちろんフォトジャーナリストの存在を否定するものではない。ひとつの歴史の記録者としての役割はあるだろう。しかし、彼らはより大きな記録者となるために、より大きな問題を抱えている他人の領域に入り込んでいく。写される側の味方のつもりが、その映像の衝撃が強ければ強いほど、写される側から離れていく。
 もし土門さんが、山口さんと少し時間をかけて筑豊を歩いていたら、きっとまた違った「筑豊のこどもたち」が出来ていたにちがいない。山口さんの『ボタ山のあるぼくの町』を見ていたら、ふとこんなことを思った。

「ヤマで暮らし、ヤマを撮る」より(山口勲写真集『ボタ山のあるぼくの町』3頁)


ちなみに、山口勲さんの祖母は「女坑夫」だったという(「あとがき」158頁)。


参照