アフガニスタン哀歌(A Lament for Afghanistan)

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The road to Oxiana - Google ブックス

 私は評論家としてではなく、一人の心酔者として書いている。この本が私にとっての「聖典」となってから久しい。批判などできるはずがない。十五歳のときに手に入れた本は、中央アジアへの四度の旅にも持ち歩き、背表紙がとれ染みだらけだ。だから、「忘れられた本」だとか「図書館の棚に葬られた本」という言い方をされるたびに腹が立つ。私にとっては、幸運なことに一度も忘れ去られた本にはならなかった。(『どうして僕はこんなところに』310頁、asin:4047913243

「専門家」は、バイロンには叙情的に綴る才能はあったかもしれないが、学者ではなかったとあら探しするだろう。そう、もちろん、彼らの言う意味ではバイロンは学者ではなかった。しかし、建築からその文明の士気の高さを計り、古代の建築と現代の人間を、綿々と続く一つのストーリーの二つの側面と捉える超人的な能力をもって、彼はありきたりな学問などというものを超越している。(『どうして僕はこんなところに』313頁)


ブルース・チャトウィンは西欧文明に対する中央アジアの意義、とりわけアフガニスタンの重要性を深く知る術を英国の紀行作家ロバート・バイロンRobert Byron, 1905–1941)から学んだ。バイロンの紀行文『オクシアーナへの道』(未邦訳、The Road to Oxiana, 1937)は彼にとって15歳のときから「聖典」だった。チャトウィンは、ソ連アフガニスタン侵攻(1979年)の翌年に怒りをこめて「アフガニスタン哀歌」を書いた。怒りの矛先は明確だった。

 確かに、バイロンの時代も今日も、シーア派イスラム教徒の聖地マシャッドの堕落的狂信のあとにアフガニスタン国境を越えると、生き返った感じがする。「ここにやっと、劣等感にさいなまれていないアジアがある」バイロンはヘラートについて書いた。そして、アフガン人のこの士気の高さこそが中央アジアに働く遠心的な力と相俟って、ロシア人とさもしい売国奴たち(灼熱地獄で苦しむがいい!)に恐怖を抱かせたのである。(『どうして僕はこんなところに』315頁)

 今年は、例年にもまして、ロバート・バイロンの死が悔やまれてならない。充足というものを知らなかった男。ナチスの企みを見て「パスポートには戦争挑発人と押してもらおう」と言った男。もし今日生きていれば、そのうちに(アフガニスタンでは何事も時間がかかる)、アフガン人は侵略者に何か非常に恐ろしいことをするだろうと言ったに違いない。非常に恐ろしいこととは、中央アジアの眠れる巨人を目覚めさせることかもしれない。(『どうして僕はこんなところに』317頁)


だが、絶望はどう処理されるのか。チャトウィンは失われたものたちへの「哀歌(Lament)」に一縷の希望を託した。

 しかし、その日が来ても、私たちが愛したものが戻ってくるわけではない。空の高い、澄みきった日。山々の青い万年雪。風にざわめく白いユリノキ並木。長く白い祈りの旗。チューリップ畑に続くアスフォデル畑。チュクチャランの上の丘を点々と染める太い尾をした羊。尾が大きすぎて荷車に結びつけなければならなかった雄羊。レッドキャッスル、紅い砦に寝ころんで、チンギスの孫を殺した谷をワシやタカが悠然と飛ぶ様子を見ることもないだろう。ムガール帝国の創建者バーブルの回顧録をイシュタリフバーブルの庭園で読み、盲目の男が薔薇の茂みの香りを嗅いで帰り道を捜すのに出会うこともない。ガザール・ガグの物乞いとともにイスラムの平和のうちに座っていることも。バーミヤンで、乾ドックにはまった鯨のように、窪みにまっすぐに立てられた仏像の頭の上に立つこともない。遊牧民のテントで寝ることも、ジャミのミナレットをよじ登ることもない。辛くてきめが粗く苦いパンも、カルダモン風味の茶も、雪解け水で冷やしたブドウも、高山病予防に食べた木の実や干した桑の実も皆、その味を忘れてしまう。豆畑の匂い、ヒマラヤスギの甘く樹脂質の匂い、一万四千フィートで流れてきたユキヒョウの匂いも、取り戻すことはできない。(『どうして僕はこんなところに』318頁)


IV In the footsteps of Robert Byron, WINDING PATHS, p.98, asin:0224060503


ロバート・バイロンの跡を継ぐようにしてブルース・チャトウィンアフガニスタンを歩いた。そしてブルース・チャトウィンの跡を継ぐようにして長倉洋海は戦渦のアフガニスタンに奥深く分け入った(→ 30年20万枚の軌跡)。


なお、「オクシアーナ(Oxiana)」とは、アムダリヤ川Amu Darya)流域の土地の名称である。アムダリア川は、アフガニスタンの北部、タジキスタンウズベキスタンとの国境近くを流れ、トルクメニスタンに入り北西に折れて、アラル海に注ぐ。アムダリヤ川は古代においては、ギリシア人やローマ人にとってはOxusとして、またインド・アーリア人にとってはVaksuとして知られた中央アジア一級の川であった。


参照