流離(さすらい)人:自由を求めるコヨーテの物語から


左:ソングライン (series on the move)、右:The Songlines

 寝る前によく読んでもらったのは、アーネスト・トンプスン・シートンの『狩られるものの生活(Lives of the Hunted)』に出てくる雌のコヨーテの話だ。
 コヨーテの子供ティトーは、いっしょに生まれた兄姉のなかでいちばんのちびだった。ウォルヴァー・ジェイクというカウボーイに母親を撃ち殺され、兄姉たちも頭を殴られて死んだが、ティトーだけは殺されなかった。ジェイクが飼っているブルテリアとグレイハウンドのいい玩具になると思われたのだ。挿絵には鎖につながれたティトーが描かれていたが、それほど哀れを誘う子犬の姿を僕は見たことがなかった。それでもティトーは利口に育ち、ある朝死んだふりをして荒野(the wild)へ逃亡した。逃げのびたティトーは、若いコヨーテたちに人間を避ける知恵(the art)を授けた。
 自由を求めるコヨーテの物語が、どういう連想でアボリジニの“放浪の旅(Walkabout)”への興味につながっていったのかは、僕自身よくわからない。

 『ソングライン』20頁〜21頁、THE SONGLINES, p.9


コヨーテにとっての「人間を避ける知恵(the art)」は、ひとりの人間にとっては無闇な争いや自他の暴力を避ける知恵と読み替えることができるだろう。避ける知恵の中には文字通り逃げることも含まれようが、逃げずに避ける、上手くかわす方法もあるだろう。

「突飛な言いぐさに聞こえるかもしれませんが」僕はエリザベス・ヴルバに言った。「僕は、『その大きな脳はなんのためにあるの?』と訊かれたら、こう答えたいのです。『荒野を歌いながら歩くためだよ(For singng our way through the wilderness)』と」

 『ソングライン』413頁、THE SONGLINES, p.249


争うために使う脳は高が知れている。大きな脳がフル稼働するのは「歌いながら歩く」ときである。チャトウィンにとって「歩くこと」は、可視、不可視を問わずにわれわれがとらわれがちな広義の暴力に対抗、抵抗するために大きな脳をフル稼働させてやっと実践できる知恵(the art)だったにちがいない。

 すべての偉大な師は説いてきた。人間とはそもそも、“この世という過酷で不毛な荒野をさまようさすらい人(a wonderer)” ------ドストエフスキーの作品に登場する大審問官のことば------であり、その本来の姿(humanity)を再発見するため、人は愛着(attachments)を捨てて旅立た(take to the road)なくてはならないのだ、と。

 『ソングライン』264頁、THE SONGLINES, p.161


流離(さすら)うことを自覚している者は本当は流離(さすらい)人ではなく、本来の道(humanity)を歩いているのであって、流離うことを怖れる者の方が、じつは本来の道から外れてさまよっているのだろう。大きな暴力がそうとはみなされにくいように、大きな迷いや過ちはそうとは気づかれにくい。