声音、声色、声の根

耳に気持ちのよいイントネーションって、声の波立たせる空気の魅力的な波紋のようなものだと感じる。しかも、人間の話す内容なんて高が知れているような気がするけど(あっ)、その人の声が描く形やその人の書く文字の特徴には、いわゆる知識の姿は永遠にとらないかもしれないけれども、それよりもっとずっと大切な情報が込められていて、僕らはそういうことに実はもの凄く敏感に反応しているような気もする。ただそのことを敢えて話題にはしないだけで。そんなわけには行かないことは百も承知の上で、残りの人生は、人の声や文字の姿、そして人間以外の存在の人間の言葉には決して翻訳できない音声や信号に耳を澄まして生きるのが理想だなんてふと思うことがある。ふと、ね。


一昨々日、松本昭司さん撮影のドキュメンタリービデオ「沖家室島 泊清寺の八十八か所復活作業」を紹介した。ビデオに溢れる光や吹く潮風の音や海の景色はもちろん、ビデオに登場する伐採担当の田中照敏さんと撮影担当で声だけ登場する松本昭司さんの言葉のやりとりの内容、そしてお二人の語り口の独特のイントネーションがとても魅力的だった。私にはとても真似のできない、真似すべきでもないイントネーション。特に、古いお遍路道を再生するに当たって剪定の対象となったハイノキ(灰の木)は「昔から灰にもならん、一番役に立たない木と言われている」という田中照敏さんの説明に、「役立たずか、ふふふ」と即座に応じた松本昭司さんの灰の木に対する温かい共感の籠った何とも言えぬユーモアを感じさせる声の調子に強く惹かれ、思いがけず一種の幸福感さえ覚えて、我ながら驚いていた。その後、近藤さん(id:CUSCUS)の指摘(→ こちら)のお陰で、私が感じた幸福感の底には、松本昭司さんの山口弁のイントネーションと相方の田中照敏さんの名古屋弁のイントネーションのいわばハーモニーが流れていたことにはっきりと気づいた。私は心のどこかで松本さんと田中さんのカラフルな声音、声色が非常に羨ましかったのかも知れないとも思う。イントネーションという声の描く波紋は、個人を越えて大切なものを代々密かに運んできた形の上に、個人が自分の生き方から自然と滲み出る形を重ねて描いてできあがるのだろう。文章では伝えることの不可能な声の遺産。それに比べてオレは多色な声が漂白されてしまったような標準語を身につけるのと引き換えに祖父母の代の色濃い東北の声のイントネーションをちゃんと継承できなかったことをふと残念に思った。イントネーションは声と土地をつなぐ根っこみないなものかもしれない、な。オレは生きた声をそうとは知らずに失っていたのではないか。今からでも取り戻す、回復することはできるだろうか。もしかしたら、無意識に、オレはそんな声を回復するために今いる土地を、時々お気に入りの場所に座り込んで声を出したりしながら、性懲りもなく歩き続けているのかもしれない。


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